2018年8月21日火曜日

廃図書館と活図書館

 物語は本の中に書いてあるが、その本が収められた図書館も物語になりやすいようだ。その本が収められた図書館の物語を記した本が収められた図書館が……。
 ややこしいのでやめよう。

 さて、ホームズのことなどについて書きたいと言っていたブログですが当初からのもうひとつの大きなテーマは「図書館」なのではないでしょうか。(最初の投稿を見られたし。)
 ブログを何か月も放置して何をしていたかというと、小説を読んだりドラマを見ていました。
 そして「図書館は物語になる」という仮説に思い至ったわけです。
 去年の夏には『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコ)を読んで、映画版も借りてきて三回観ていました。また今年の春から秋にかけては、ドラマ「Person Of Interest」(1~5シーズン全103話)にかかりきりで、主演のマイケル・エマーソンとジム・カヴィーゼルの他の出演作(「ソウ」シリースの第一作や「大脱出(原題Escape Plan)」)を観たりしているうちにこんな季節になっていたというわけです。エマーソンの出ている「LOST」鑑賞は遅々として進みませんが。

 さて仕切り直してもう一度。
 物語は本の中に書いてあるが、その本が収められた図書館も物語になりやすいようだ。その本が収められた図書館の物語を記した本が収められた図書館が……。(ややこしいのでやめよう)



「Person Of Interest」第1話で、2011年、ニューヨークの早くも冷え込む9月、元軍人の路上生活者を強引な手段でスカウトした足の悪い眼鏡の男、自称「フィンチ」氏は相手を市内のある建物へ案内する。フィンチ氏はいう。

「西洋文明の衰退の象徴 予算削減で閉鎖された図書館だ。」

 古めかしいこの廃図書館の床には、夥しい本が散乱している。(侵入者の存在にすぐ気づけるように、床に埃や小麦粉をまいておくのと似たような仕掛けだろうか?)だが上階へ上がれば、書架にきちんと収められた本が並ぶ居心地のいい空間である。ここがフィンチ氏の隠れ家らしい。(ただし住んではいないようだ。)コンピュータとネットに詳しいフィンチ氏のデスクはその中でも、金属製の優美な柵で保護された貴重書の棚の前に据えられている。ここが、のちのちまで二人(仲間は増えていく)の秘密基地となる。


 図書館を舞台にした物語といえば、たろうには真っ先に「GOSICK」シリーズ(桜庭一樹)が思い浮かぶのです。これはまったく個人的な思い入れで、中高生時代に図書館で借りては読み耽ったからです。
「GOSICK」(GOTHICではないのです)の二人の秘密基地になっているのは、架空のヨーロッパの小国ソヴュール王国のとある学園の敷地に建つ聖マルグリット大図書館である。この図書館は皮の表紙を持つ、もしかしたら羊皮紙製の、大型本を所蔵する古いタイプの図書館で、主人公の久条一弥は友だちのヴィクトリカを訪ねて、庭園になっている最上階に辿り着くためには折れ曲がりながら延々続く木の階段を「足をだるぅく」しながら登っていかなければならない。
 桜庭作品の中には、メジャーなこの聖マルグリット大図書館の他にも、もうひとつ、重要な図書館がある。と私は思う。
『ファミリーポートレート』の図書館である。いま本が手元にないので記憶に頼って書くので、もしかしたら間違っているかもしれない。
 殺人を犯した母の眞子とふたりきりで、小さな町を転々としながら育つ主人公の駒子は、ある町の(たぶん公共)図書館に入り浸るようになる。食肉工場に勤めながら男(単数)に支配される母という現実から逃れて、駒子は、なぜか打ち捨てられ廃墟のようになっている図書館に、(たしか)無断で侵入し山のような蔵書に埋もれて過ごす。聖マルグリット図書館は新聞や電話の発達した1924年となってはもはや時代遅れになっているとはいえ、まだ権威と図書資料の保管という機能の残っている図書館だが、この図書館は現代の「市民のための」図書館であるにもかかわらず、その市民に忘れられもはや図書館の屍となっている。

 図書館には廃図書館と活図書館、生きている図書館と死んでいる図書館がある。
『薔薇の名前』の図書館は「生きている図書館」と「死んでいる図書館」のどちらだろうか。
 非常に貴重な図書を収め、厳重に管理されているはずのこの図書館は、しかし、中の本が読まれることを望まない図書館なのだ。迷路のような構造とその他の仕掛け(たろうは映画版でこの図書館の仕掛けが変更されかつ比較的単純な構造になっていることに最初かなり不満であった。)をもつ図書館は、いわば「図書館であることが自己目的化した図書館」ともいえるだろう。
 図書館が図書館の白骨、図書館の化石となった時、あらためて物語の舞台になるのはなぜだろうか。
 たぶん、通常の、平時の、本来の姿の図書館とは一種の生体であって、利用者と、利用者の使用によって動き、全身を巡る図書資料という血液の循環によって図書館たらしめられている。血の流れが止まり、肉が削げた図書館はもはや図書館ではなく、図書館の形骸をもつ亡霊に変わる。亡霊でなければ、ゴーストストーリーの登場人物にはなれない。


 物語は本の中に書いてあるが、その本が収められた図書館も物語になりやすいようだ。その本が収められた図書館の物語を記した本が収められた図書館が……。そういうわけで、図書館は数多くの図書館の亡霊の気配でざわついている。
 これが、図書館に行くとトイレに行きたくなる理由である。


(『薔薇の名前』は2019年放送予定のドラマとしてイタリアなどの合作で制作が進んでいるようです。そして、マイケル・エマーソンは修道院長を演じます。)

2018年4月29日日曜日

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んで作った詩

 行く手の段の上に、なにか小さいものがほこりの中で動いていた。
 それを見るなり、イジドアはスーツケースをほうりだした。

(フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』朝倉久志 訳、  ハヤカワ文庫、1977年)



  「『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んで作った詩 」


 むかいの座席(シート)の男性の
 しらが混じりの頭のかげに 蜘蛛がいる
 手のひらほどの
 磨りガラスの
 蝋製の
 白い大きな蜘蛛

 外側にいるのだろうか
 猛スピードで東へ走る急行電車の窓の
 蜘蛛は内側にいるのだろうか

 ふたたび黒い文庫本の中にもぐりこむ
 Do Androids Dream of Electric Sheep?

 顔を上げると
 もう蜘蛛はいない
 蜘蛛などというものは
 ずいぶん前から

 電車が走り去った
 線路の間に
 磨りガラスの蜘蛛の脚が落ちている
 もうずっと前から 

 電車の窓に蜘蛛の亡霊がはりついていることがある
 白い手のひらほどの

 ホームにちらちら漂っている埃は
 小さな羽のある虫の亡霊で
 この季節になるとあらわれる

 (げんじつにはまだ蜘蛛はいる)
 電車の窓に蜘蛛がはりついていることがある
 電車の窓に蜘蛛の亡霊がはりついていることもある


2016年10月24日月曜日

ヒラリー・マンテル『ウルフ・ホール』 謎の男トマス・クロムウェル

 物語は1500年、ロンドン近郊でテムズ川近くのパトニーから始まる。酒びたりの醸造業者兼鍛冶屋の父ウォルターに殴られて育った少年のトマス・クロムウェルは、ある日ついにドーヴァーを渡って兵士になろうと旅立つ。
 次の章にトマスが現れた時は1527年、27年が経ち、彼は中年になっている。その間のことは物語の中で直接には語られない。トマス自身も語らず、敵やライバルたち、王や枢機卿でさえさまざまに憶測して噂するしかない。ただ、彼の切れ切れの追憶によって、読者には傭兵としてヨーロッパをさすらい、イタリアで商業や金融の修行をして帰国し、妻と出会い、弁護士として成功したことが断片的にわかるだけである。トマス・クロムウェルは謎の男である。おそらく彼自身にとっても、彼は謎である。
 トマス・クロムウェル(1485?~1540)は遠縁のオリバー・クロムウェル(1599~1685)とは違い、日本ではあまり知られていない人物である。同じようにこの物語の主要人物であり、イギリスのローマカトリックからの離脱と国教会の確立の主因となった「ヘンリー八世の離婚問題」の中心人物であることろのヘンリー八世、キャサリン・オブ・アラゴン、アン・ブーリン、トマス・モアは高校までの歴史の教科書に載っているが、クロムウェルはそこに登場しない。 しかし、ヘンリー八世、アン・ブーリン、トマス・モア、そしてエラスムスと同じように、ホルバインによって肖像画を描かれたうちの一人だった。
 由緒ある系譜に連なるのではないこと、また1540年にヘンリーの不興をかい刑死したのちには、カトリックの信仰を貫こうとした「トマス・モアを死に追いやり、アン・ブーリンを利用して王室を混乱させたのちに用済みになると陥れた」悪役としてのイメージが上書きされる機会がなかったせいだろうか。
 この物語のトマス・クロムウェルは不思議な男である。
 小説は、「彼は……」「彼は……」という主語(文中で「彼」がつかわれるときそれはほぼクロムウェルのことをさす。)でトマスの見聞きした事実、トマスの心に浮かんだ考えによって進行する。この主人公トマスの中にもぐりこんだ三人称の視点によって、彼の周囲の人々はカメラで写すようにくっきりと描写されるのにもかかわらず、トマスのほうは曖昧模糊としたままだ。語らせようと思えば、彼にいくらでも自分を語らせることも認識させることもできるのに、ひとは自分については考えたり直観したりできないものらしい。代わりに、微に入り細をうがち描き出されるまわりの人々のうちに、トマスが見えてくる。あたかも彼ら彼女らの瞳に彼ら彼女らをみつめるトマスが映ってみえるように。
もっともはっきりとトマスと対になっている人物は、同じトマスという名をもつトマス・モア(1478~1535)ではないだろうか。シリーズ一作めの『ウルフ・ホール』は、たびたび引き返す道を示しながらもクロムウェルが主導し、モア自身もかまわずそこに突き進んでいったモアの斬首でひとまず終わるのである。
 1529年に大法官、そしてクロムウェルの仕えるウルジーの敵として登場するモアは、『ユートピア』で英国の現状を生き生きと風刺した若き日の彼ではなく、家を継ぎ、再婚し、人生によって摩耗した天才に見える。一時は聖職を志したいまのモアは、トマスの目には、というよりトマスの目をとおした読者の目には、古い信仰にしがみつき、どこかマゾヒスティックでもありサディスティックでもある、苦行僧じみた奇怪な老人である。ロンドンの名家に生れたモアはクロムウェルの数歳年長であり、伯父の働く調理場で使い走りをしていたクロムウェルは、生きるか死ぬかの死線をくぐりぬけ、生き馬の目を抜く商業と法曹の世界に暮らした年月を経てなお、天才少年との邂逅をよく覚えている。
 BBC制作のテレビドラマでは、トマス・クロムウェルをマークライランスが、トマス・モアをアントン・レッサーが演じている。がっしりとした、中年に入って少し肉がつき、「人殺しの顔」と身内にまで言われる原作の描写とは多少異なり、ライランスのクロムウェルは痩せ型で眉の太いもの静かな風貌で、しかし深い皺がこの弁護士を謎めいて、時にむしろモアよりも老けて見せている。対してアントン・レッサーのモアはかつての美男の面影を残した、ぼうぼう髪の、真っ白なうさぎを抱いた小さな老人である。この美しい小さな老人が、英訳聖書を読む異端の市民を探り出し、魂を救うため必要と考えれば拷問するのである。
 ふたりは王の離婚、プロテスタントの信仰とカトリックの信仰、ローマからの独立をめぐって政治的な立場からだけでなく、心情的にも激しく対立する。いや、揺れ動いているのはクロムウェルの心だけで、モアははるか昔に完成されてしまったように、クロムウェルがいくら歯がみしようとも、冷たく揺るがない。

 あなたは自分が知っているすべて、自分が学んだすべてが、前に信じていたことのままだと、どうして確信できるんです? おれの育った環境、信じていたはずのものは、すこしずつ欠け、破片は断片となり、断片はさらに大きくなるというのに。毎月毎月、この確実な世界から角がはがれ落ちていくんですよ。(『ウルフ・ホール』上巻71ページ)

 しかし、クロムウェルとモアは同時に互いの似姿でもある。苦労を重ね才能に恵まれた弁護士の父親に対して、彼らの息子たちは善良だが才知に欠け、頼りない。彼らが望みをかけるのは優秀な娘たちである。クロムウェルは妻を亡くし、モアは妻を亡くして新しい妻を娶り、愛していない。
他の人物たちも、いわばトマスの網膜という鏡に移った彼でもある。
 アン・ブーリンは常に足場に神経をとがらせなければならない成り上がりの彼である。
 ヘンリ八世はかえりみられなかった子どもとしての彼である。
 トマスとともにウルジー枢機卿の側近で、情勢が不利になるや王側につくスティーヴン・ガーディナーは、しかし常にトマスの一歩後ろに甘んじることになる。最大の敵であるトマスの過去を探り「君が知らないことを私は知っている」と囁くガーディナーは、王家の庶子と噂され、幼少時から不当な扱いを受けてきたという不満を燻ぶらせている。彼にとってトマスはその自分の境遇をつきつける一種の自画像であり、それゆえに彼はますますトマスを憎むのである。この作品においてモア、アン・ブーリンについでトマスと強い対比がなされているのはこのスティーヴン・ガーディナーではないかとたろうは考える(しかしこれはたろうがドラマでガーディナーを演じたマーク・ゲイティスのファンであるためかもしれない。)
 このようにして、謎の男トマス・クロムウェルは、読者の前に次第次第に、ぼんやりと、おぼろげに姿を現してくる……。


(「ウルフ・ホール」については、全部書き終わるまで考えているときりがなさそうなので、とりあえずこれでUPして、順次書き足していこうと思います……。)

BBC制作ドラマ版の情報はこちら 。現在AXNミステリーのみでの独占放送ですが、2016年の年明けから何度か繰り返して放送されています。
 http://mystery.co.jp/programs/wolf_hall

2016年5月25日水曜日

大英帝国の汚水溜め ドクトル・ワトスンの登場(新ロシア版ホームズのすすめ)


のちに一連のホームズ物語の記録者となる元陸軍医ジョン・H・ワトスンは第五ノーサンバランド・フュージリア連隊所属の軍医としてアフガン戦争に従軍し、負傷したうえ病に倒れ生死の境を彷徨った末、健康・精神ともにいちじるしく衰えさせて祖国大英帝国のポーツマスにたどり着く。この時の彼は、ほんの少し未来に会うことになる、あの変人と言えるほど個性的で興味ぶかい同居人、私立探偵シャーロック・ホームズのことなど少しも知らないし、そんな男のことなど想像してみたこともなかっただろう。ワトスンはこの時の自分についてこう綴る。

 (前略)ポーツマス港の桟橋に上陸したとき、私は九か月間の静養休暇を祖国イギリスからあたえられていたものの、ひどい状態で、とうていもとの健康にもどりそうもなかった。イギリスには、友人も親類もいなかった。わたしは、空気のように自由だった――つまり、一日の支給額十一シリング六ペンスで生活するかぎり、自由の身だった。そんな状態だったわたしは、ふらふらとロンドンにひきよせられていった。イギリス帝国のあらゆる遊び人たちが、その日暮らしをしているあの巨大な糞尿だめに、ひきよせられていったのである。(1984年、偕成社『シャーロック=ホームズ全集1 緋色の研究』)

しばらくのあいだ自堕落なホテルずまいをしていたワトスンは、しかし生活を立て直そうと決意して下宿を探しはじめ、スタンフォード青年の紹介でシャーロック・ホームズに出会うのである。実は、これがたろうがホームズ物語の中でもっとも好きな箇所なのだが、こうして改めてみてみると、ワトスン博士とシャーロック・ホームズの物語はずいぶんと陰鬱な幕あきをしているのである。



そのせいだろうか、違うかもしれないが、映像化されたホームズものでこの場面が描かれることは意外少ないようである。たろうが知っている作品に限られるが、たとえば、

・ワーシリー・リヴァーノフのホームズのソ連版ホームズ(1979年)は、快活な友情と冒険の物語で、ワトスンが友人からホームズと引き合わせられるところからはじまる。

・ジェレミー・ブレットのホームズのグラナダ版(1984年)では、ホームズとワトスンは第一話の「ボヘミアの醜聞」から同居していて、ワトスンの帰郷は描かれない。

・ガイ・リッチー監督の映画版「シャーロック・ホームズ」(2009年)は、そもそもワトスンが結婚にともないホームズとの同居を解消して出ていこうとしているところからはじまる。



舞台を現代に移したBBC版(2010年)では、冒頭、ジョン・H・ワトスンはホテルの部屋でひとり戦場の悪夢にうなされている。彼は飛び起き、ふたたび寝入ることができないまま、夜は白々と明けていく。彼はカウンセリングに通うが、カウンセラーにすすめられてはじめたブログに書くべきことを見出せない。原典での、マイワンドからペシャワール、ポーツマス、ポーツマスからロンドン、そしてベーカーストリート221Bへの地理的彷徨は、「日々」の明け暮れという時間的彷徨、そしてなによりも本質である精神的彷徨に見事に置き換えられている。


しかし、そのものずばり、ワトスン博士がロンドンに降り立つところもぜひ見たいではないか。



新ロシア版(2013年)では、意気阻喪したジョン・H・ワトスン医師は血の気のない白っぽい顔をして、小柄な人間ほどもある大荷物を肩から提げて、駅の雑踏の中へ汽車から降りてくるのだ。



たろうが新ロシア版ホームズの第一話で圧倒されたのは、夜の酒場にうごめく人々ひとりひとりでした。彼らのいる闇は、ドクトル・ワトスンのいる個人的な闇、貧困と悪意と犯罪の蠢くロンドンの闇、そしてドクトル自身も戦争を通してつながっているところの大英帝国の闇であり、若き名探偵シャーロック・ホームズはそれに対して生きいきと輝く光なのです。



と、いうことで新ロシア版ホームズ「名探偵シャーロック・ホームズ」は5月26日(木)AXNミステリーで放送http://mystery.co.jp/programs/sherlock_russiaです!

2015年8月7日金曜日

Three Days in the Countryが観たくてツルゲーネフ「村のひと月」を読む



いつまでもホームズしばりを続けるわけにはいかなかったが、偶然に今回も図書館が関係してくる。


たろうは、俳優のMark Gatiss(マーク・ゲイティス)さんが大好きだ。ファンと、言っても、許されるだろうか。氏は7月21日から10月21日の期間で上演されるThree Days in the Countryという作品に出演している。場所はロンドン、ナショナル・シアター。当然、たろうには観に行くことはできない。いいなあー。観たいなあ。どんなお話なんだろう。

この作品はツルゲーネフの戯曲「村のひと月」を元に、劇作家でコメディアンのパトリック・マーバーが翻案したものである。

つまり、「村のひと月」を読めば、大体どのような舞台であるかということはわかるはずだ。よし、「村のひと月」を読もう。

次の記事を書きあぐねたままずっと放置していたこのブログに書こうと思ったのも、ひとえにゲイティスさん好きさの故だ。(次はホームズ関連のことを書きたいと思う。)


 ところが、いざ探してみると、本がない。

(中学や高校の国語の文学史では、二葉亭四迷の業績として、必ず小説『浮雲』(1887年)とともにツルゲーネフの『あひびき』、『めぐりあひ』などの翻訳(ともに1888年)が挙げられる。そもそも、外交官を目指していた二葉亭が文学に目覚めたのもドストエフスキーやツルゲーネフなどロシアの小説がきっかけだった。二葉亭四迷といえばツルゲーネフ、ツルゲーネフといえば二葉亭四迷というくらいだが、裏を返せば、現在の一般的な認識はそこにとどまってしまっているのかもしれない。小説でなく戯曲であればなおさらだろう。)

本の通販サイトで見た限り、『初恋』、『父と子』、『猟人日記』あたりは文庫にも入っているものの、「村のひと月」はツルゲーネフの名作選集や全集にしか入っていない。その全集はというと、いずれも在庫切れ(絶版)だ。古本も少ないし、高い。(世界戯曲全集というようなシリーズには入っていることもあって、こちらの古本は比較的安価だった。とはいえ、どれも大正時代、昭和初期の本だ……。)

 とすれば方法はひとつだ。図書館である。


 ツルゲーネフ全集は地下の書庫にあった。

『ツルゲーネフ全集 第10巻』、1996年日本図書センター発行。収録作品は「村のひと月」、「田舎をんな」、「食客」の戯曲三作。昭和12年に、東京本郷の六藝社から発行されたものの復刻版である。扉から本文、奥付などは110パーセント拡大でそのままで、新たに解説が付いている。つまり、旧字旧かな遣いで、言い回しもかなり古めかしい。

 しかし、何はともあれ、本が手に入った。内容に入っていこう。

「村のひと月」、訳者は米川正夫である。


 登場人物は13人。

 裕福な地主イスラーエフ氏(36)、その妻ナターリヤ・ペトローヴナ(29)、息子コーリャ(10)、養女のヴェーロチカ(17)、イスラーエフの母アンナ・セミョーノヴナ(58)のイスラーエフ一家。

 それにアンナの話相手リザヴェータ・ボグダーノヴナ(37)、同居人でイスラーエフの友人ラキーチン(30)、ドイツ人でコーリャの家庭教師シャーフ(45)、新たにやってきたロシア語の家庭教師べリャーエフ(21)、従僕のマトヴェイ(40)、小間使いのカーチャ(20)。

 そして今回の舞台でゲイティス氏が演じる地域の医者のイグナーチイ・イリーチ・シュピーゲルスキイ(40)と、隣村の地主ボリシンツォーフ(48)。

(ヴェとしたところはすべて原文ではヱに濁点)




 作品の発表は1855年、初演は1872年。

 時代設定は1840年代、季節は夏、全場面がイスラーエフの家庭内である。物語の概略は以下の通りである。


善良だが平凡なアルカーヂイ・セルゲイッチを夫に持つナターリヤは、ラキーチンと節度ある関係を保ちつつ心を通わせあっていた。そこへ息子の家庭教師として、ベリャーエフがやって来る。素朴で内気な青年だが、子どもたちはよく懐く。

それからひと月足らず、シュピーゲルスキイは養女のヴェーロチカと年の離れた隣村の地主との縁談を持ち込む。当初は乗り気でなかったナターリヤだが、自らがベリャーエフに今までにない感情を抱いていることを自覚し、更にヴェーロチカが彼に思いを寄せていると確信することで、激しく動揺する。

そして各人苦悩の結果、ベリャーエフとラキーチンはあいついでイスラーエフ家を去り、ヴェーロチカもボリシンツォーフとの結婚によってイスラーエフ家を出ることを決意する。


 第一幕は大広間や書斎につづく客間、第二幕は庭、第三幕がまた客間、第四幕は庭の亭(あずまや)、第五幕でまた最初の客間に戻る。

 ここで気になるのが登場人物表の横に記された「第一および第二、第二および第三、第四および第五幕の間は各々一日たつてゐる。」の一文をどう解釈すべきかということだ。これは、内容を見ていけばわかることである。

まず、第二幕は第一幕の翌日である。(第一幕は夕方であるが、ナターリヤが訪ねてきたシュピーゲルスキイに「あなた、宅で食事をなさいますか?」と訊ね、第二幕で「シュピーゲルスキイさんはもう帰りましたかしら?」と言っていることから推測される。ドクトルはおそらくはイスラーエフ家に一泊して帰ったのだろう。)

また、第三幕も第二幕の翌日である。(ラキーチンはナターリヤに「わたしはもう一昨日から、あなたの心に何か変化が起こったと言ってるでしょう」と言っている。これは第一幕の日のことである。)第三、第四幕は同日で(前幕の最後にナターリヤが「わたしはあの人(ベリャーエフ)に手紙を書こう」と言って急いで書斎へ去った後、第四幕でベリャーエフがその鉛筆書きの手紙を手にしている。)、最後の第五幕はその翌日である。

第一幕でのベリャーエフの「わたしがここへ来てから、もう幾日になりますかねえ」という問いに、小間使いのカーチャ(ベリャーエフを慕っている)は「今日で二十八日目ですよ」と答えている。


こうして、物語の全ては夏の一ヶ月の最後の四日間の出来事だということがわかる。「村のひと月」という題名の理由である。

構成としては、第一幕、第二幕、第三・四幕、第五幕で起承転結にあたり、激動の三日間、そして全てが終わる四日目となっているので、リライトでThree Days in the Countryとされたのではないだろうか。


などと当たり前のことを長々と書いてしまい、またこの先も長くなってはいけないので、シュピーゲルスキイを中心にまとめたい。

シュピーゲルスキイは腕のあまりよくない医者である。彼は謝礼の馬車用の馬三頭を目当てに、なんとかボリシンツォーフとヴェーロチカの縁談を成立させようとイスラーエフ家の中を動き回る。機嫌の悪いナターリヤは彼を「あの田舎出来のタレイラン」と呼び、「頭ばかりぴょこぴょこ下げてるくせに、恐ろしく図々しい横柄のところがあつてね…仕様のない恥知らずよ」と評す。

しかし、シュピーゲルスキイのほうでも、リザヴェータにまったく実際的な求婚をしながら、ナターリヤをかなり辛辣に批評しているのである。彼は未来の妻に、自分の素顔について「わたしは他人にゃ笑っても見せますが、その実腹の中では、この馬鹿野郎め! うまく鉤に掛かってるのを知らないのか、と思ってるんですよ」と語る。しかしこれも、あるいは彼の手管なのかもしれない。人は他人に素顔らしいものを見せられると、心動かされるものだからだ。

なにもおしゃべりなのはシュピーゲルスキイだけではない。ナターリヤとベリャーエフも、未熟でおとなしいヴェーロチカでさえ自分たちの立場と思いをよくしゃべる。(それはもちろん演劇だからでもあるが。)現代人なら、同じ状況に置かれた時、沈黙のまま探り合いを続けるだけのような気がする。

だがナターリヤはそれによって自分の立場と安寧が崩れることがわかっていても、なお自分とは何なのか、誰なのかを知ろうとすることをやめられない。シュピーゲルスキイは「自分とはこういうもの」とあらかじめ決め込んでしまって、その裏と表を使い分けることで生きているのだが、どちらにせよ、自分の、人間の真の姿とはなんなのか? という作品全体にひかえめに漂う問いは、財産も名誉もない160年後の自分でも、自身に問い掛けて、答えることのできない難問だ。


物語の中で、健康的で現実的なカーチャの存在が爽やかだ。第四幕、カーチャは言う。
「あのリザヴェータ・ボグダーノヴナも、あのお医者の奥さんになるんだろう…(笑う)おお厭だ…わたしなんかちっとも羨ましかないわ…おや、まるで草が洗ったようだ…何ていい香りだろう」
ちっとも羨ましかないわ、とたろうも真似をして言ってみる。ああ、けれどもカーチャ、本当にそう言えるだろうか?


(引用は全て、文中で紹介した『ツルゲーネフ全集 第10巻』より。原文では旧字旧かな遣いのものを新字新かなに直した。)

2014年11月17日月曜日

たろうとホームズ高校生篇 ぼろぼろの『シャーロック・ホウムズ読本』

 
 
 偕成社の青いシャーロック・ホームズ全集の巻末には、作品解説とコナン・ドイルの年譜に加えて、ホームズ物語の周辺情報がまとめられれている。 

 第一巻の『緋色の研究』では「ホームズの人生を生きる人たち」として、訳者の各務三郎さんが、世界のホームズ愛読者や「シャーロキアン」について書いている。各務さんはシャーロキアン(これはアメリカや日本で一般的な呼び名で、イギリスでは「ホームジアン」と呼ぶことも多いらしい。)を「ホームズを愛し、より充実した人生を生きようとしている人たち」と表現し、日本を含めた各国のシャーロキアンの組織と著作を紹介する。

 中でも「熱狂的な」シャーロキアンの会としてアメリカの「ベーカー・ストリート・イレギュラーズ」と、その会報から編集された『シャーロック・ホウムズ読本――ガス灯に浮かぶ横顔』(原題PROFILE BY GASLIGHT An Irregular Reader About the Private Life of Sherlock Holmes、エドガー・W・スミス編、1944年刊、邦訳は研究社より1973年刊。)について詳しく述べている。
 その中では「ホームズの蔵書目録をつくったり、ホームズ家の盾型紋章を作成したり、ホームズの家系について論じられたり」されており、他にワトスンの傷の位置について、はたまた「ワトスンは女だった」という考察もあるという…。

 その頃のたろうは、その本を見つけ出して実際に読もうとは思いつかなかった。ただ、各務さんの文章を繰り返し読み、真ん中にこちらに横顔を見せて窓辺にたたずむホームズの絵を配した『シャーロック・ホウムズ読本』の書影を眺めていた。


 あんなにもホームズ物語に夢中だったたろうだが、中学生になるころには、ミステリとしてはより複雑でより洗練された現代日本の作品に重心が移っていた。

 それが、進学した高校の図書館に揃えられていたちくま文庫版のシャーロック・ホームズ全集(ちくま文庫「詳注版シャーロック・ホームズ全集」ベアリング・グールド解説・注、小池滋監訳)を手にとってみて、ひさしぶりに胸の奥でもぞもぞ動くものを感じたのだ。
 クラフト・エヴィング商會による美しい表紙を開くと、本文に迫るいきおいでびっしりと注。ワトスンの文章の細部(天候、曜日、その他…)から各事件の日時を特定して、順番に並べてある。もぞもぞしているのは、どうやら小学生の頃からのシャーロキアン――「ホームズを愛し、より充実した人生を生きようとしている人たち」――への憧れらしかった。

 そんなある日、駅前の古本市をうろうろしていると覚えのある書名の背表紙が目に飛び込んできた。『シャーロック・ホウムズ読本』。
 近づいて棚から抜き出すと、表紙の真ん中でガウン姿の名探偵が横向きになってパイプをふかしている。間違いなくあの本だ。状態はあまりよくはない。カバーに折り皺、本体も擦り切れて、水に濡れたあともある。中身も黄ばんで、古い紙のにおいがする。でも紛れもなくあの本だ。薄茶色の帯が残っていて、そこにはこうある。
「シャーロック・ホームズは生きていた! シャーロック学の名著完訳」

 欲しい。でもぼろぼろだ。これは適正価格なんだろうか。もっと状態のいいものがあるかも。本当に? 古本街の近くに住んでいて、今までにこの本を見かけたことがある? 
 たろうは財布から五百円玉を取り出して、レジの前に進んでいった。


 家に帰り、手を洗ってから、机の前で目次を開いてみる。

 シャーロック・ホウムズの蔵書禄 (ハウアド・コリンズ)
 シャーロック・ホウムズの盾型紋章 (ベルデン・ウィッグルズワス)
 シャーロック・ホウムズ氏の真正なる盾型紋章 (W・S・ホール)
 ウォトスンは女であった (レクス・スタウト)
 ウォトスンは女ではなかった (医学博士 ジュリアン・ウルフ)

…などなど。まさにあの青い本で紹介されていたシャーロキアンたちの文章の数々。

 本文にとりかかる前に訳者の鈴木幸夫さんによるあとがきを読んでいると、こんな一文があった。

 「はじめに、この本の読者に敬意を表します。文学、小説、とくに推理小説の面白さを知っている人、教養豊かな、知的魅力の享楽家つまり高雅なエピキュリアンであるからです。」

 …大変だ。高校生のたろうは慄いた。この本を読むに相応しい人間にならなければならない。
 …死ぬまでに間に合うかなあ?

 たろうはとりあえず本棚の隅にホームズコーナーを作り、ぼろぼろの『シャーロック・ホームズ読本』と青い『緋色の研究』の二冊を安置した。そして心中密かに、いつの日か胸を張ってシャーロキアンと名乗れるように精進することを誓ったのであった。






 

2014年11月2日日曜日

たろうとホームズ小学生篇 青い『緋色の研究』

 
 
 
たろうの本棚に一冊の青い本がある。これはたろうにとって特別な本。

 偕成社の各務三郎訳『シャーロック=ホームズ全集1 緋色の研究』、奥付を見てみると1984年初版第1刷発行だ。もともとは紙のカバーを着けていたはずが、たろうの手元に来るまでにどこかで失くしてしまったようだ。むきだしの表紙には青地に黒でおそらく百年ほど昔の、ロンドンの河岸の景色が描かれている。

(この表紙の、シアンブルーに近い青が印象的すぎて、たろうは長い間、「緋色」というのはこんな色なんだと思い込んでいた。それが「スカーレット」のことだと知ったのはずっとあとのことだ。ばかだなあ! それでは、作中で探偵が無色のかせ糸の中に混じった緋色の一本をこの社会における犯罪に例えるくだりも、壁に血で書かれた「RACHE」の文字も、ちっとも題名と響き合わないのに!)

 
 この本で、元陸軍医ジョン=H=ワトスン医学博士は、シャーロック=ホームズと運命的に出会う。そしてたろうも同じように、シャーロック・ホームズに出会った。
 わたしは、空気のように自由だった。(中略)そんな状態だったわたしは、ふらふらとロンドンに ひきよせられていった。イギリス帝国のあらゆる遊び人たちが、その日暮らしをしているあの巨大な糞尿だめに、引きよせられていったのである。(上述『緋色の研究』8、9ページ)
こんな風に陰鬱に始まる物語は、たろうにまだよく知らない大人の世界の、あるいは人の内面の、薄暗いところを見せてくれた。そうしていつのまにかこの寒い、霧の中の「糞尿だめ」の街は、たしかにたろうの心象風景の一部にまでなってしまったようだ…。


 ほんとうに残念なことに、シャーロック・ホームズの物語で最初に読んだのがどの作品だったのか、実は思い出すことができない。この『緋色の研究』を読んでホームズ物語に興味を持ったのか、それともホームズ物語を読みはじめたところにこの本をもらったのか。でもどちらにしても、けっきょく同じことだ。この本をもらった時、たろうは小学一年生だった。小学生のたろうはホームズに夢中だった。

 小学校の図書室にホームズ物語は二種類あった。
 ひとつは、子ども向けに内容を省略・改変してリライトされた版型も字も大きなシリーズで、表紙のホームズは鹿撃ち帽をかぶり、曲がったパイプをくわえてチェックのインバネスコートを着ていた。たろうはまずこちらを読みはじめた。このシリーズで読んだもので覚えているのは『消えたカーファクス姫』。それから「アベイ荘園」の話もこちらではじめて読んだ気がする。(どうやらこれは岩崎書店発行のシリーズのよう。)
 もうひとつは、青い『緋色の研究』と同じシリーズ。本を読むのに慣れてきたたろうは次にこちらに手をつけた。文章は子どもにも読める易しい言葉で訳してあるが、挿絵は19世紀の末から20世紀のはじめにかけて雑誌に連載された時のものだ。黒いカバーには、本文中のイラストが明暗を反転して黄色で浮き出ていて、それが子ども心になんだか猟奇的、扇情的に感じられた。このシリーズで読んで印象的なのは「青い紅玉」、『バスカヴィル家の犬』、「唇のねじれた男」…。


   どちらのシリーズも、どうやら完全に揃っていたのではなかったようで、ホームズ物語の中でもそれから十年ほど経って初めて読んだ作品もあるし、ぼんやりとしか覚えていなかった作品もある。
 大きな屋敷の前の池に浮かぶ白鳥、銛で壁に串刺しにされた男の死体、食卓の上の冷たい肉料理…。そうした断片だけをよく覚えていて、今、慌てて読み返している。たろうは不真面目なホームズファンだ。

 だが、そんなことはたいした問題ではない。
 シャーロック・ホームズという名探偵の存在だけは、すでにたろうの中にしっかり根を下ろしてしまったから。『緋色の研究』のはじめに、彼がジョン・H・ワトスン博士の手をとってこう言った時に。
「アフガニスタンから、お帰りになりましたね。」(同15ページ)
  たとえのろのろよろよろとした歩みであっても、たろうのホームズ道がたぶん果てしなく続くことは、その時に決まったのだ。