2015年8月7日金曜日

Three Days in the Countryが観たくてツルゲーネフ「村のひと月」を読む



いつまでもホームズしばりを続けるわけにはいかなかったが、偶然に今回も図書館が関係してくる。


たろうは、俳優のMark Gatiss(マーク・ゲイティス)さんが大好きだ。ファンと、言っても、許されるだろうか。氏は721日から1021日の期間で上演されるThree Days in the Countryという作品に出演している。場所はロンドン、ナショナル・シアター。当然、たろうには観に行くことはできない。いいなあー。観たいなあ。どんなお話なんだろう。

この作品はツルゲーネフの戯曲「村のひと月」を元に、劇作家でコメディアンのパトリック・マーバーが翻案したものである。

つまり、「村のひと月」を読めば、大体どのような舞台であるかということはわかるはずだ。よし、「村のひと月」を読もう。

次の記事を書きあぐねたままずっと放置していたこのブログに書こうと思ったのも、ひとえにゲイティスさん好きさの故だ。(次はホームズ関連のことを書きたいと思う。)


 ところが、いざ探してみると、本がない。

(中学や高校の国語の文学史では、二葉亭四迷の業績として、必ず小説『浮雲』(1887年)とともにツルゲーネフの『あひびき』、『めぐりあひ』などの翻訳(ともに1888年)が挙げられる。そもそも、外交官を目指していた二葉亭が文学に目覚めたのもドストエフスキーやツルゲーネフなどロシアの小説がきっかけだった。二葉亭四迷といえばツルゲーネフ、ツルゲーネフといえば二葉亭四迷というくらいだが、裏を返せば、現在の一般的な認識はそこにとどまってしまっているのかもしれない。小説でなく戯曲であればなおさらだろう。)

本の通販サイトで見た限り、『初恋』、『父と子』、『猟人日記』あたりは文庫にも入っているものの、「村のひと月」はツルゲーネフの名作選集や全集にしか入っていない。その全集はというと、いずれも在庫切れ(絶版)だ。古本も少ないし、高い。(世界戯曲全集というようなシリーズには入っていることもあって、こちらの古本は比較的安価だった。とはいえ、どれも大正時代、昭和初期の本だ……。)

 とすれば方法はひとつだ。図書館である。


 ツルゲーネフ全集は地下の書庫にあった。

『ツルゲーネフ全集 第10巻』、1996年日本図書センター発行。収録作品は「村のひと月」、「田舎をんな」、「食客」の戯曲三作。昭和12年に、東京本郷の六藝社から発行されたものの復刻版である。扉から本文、奥付などは110パーセント拡大でそのままで、新たに解説が付いている。つまり、旧字旧かな遣いで、言い回しもかなり古めかしい。

 しかし、何はともあれ、本が手に入った。内容に入っていこう。

「村のひと月」、訳者は米川正夫である。


 登場人物は13人。

 裕福な地主イスラーエフ氏(36)、その妻ナターリヤ・ペトローヴナ(29)、息子コーリャ(10)、養女のヴェーロチカ(17)、イスラーエフの母アンナ・セミョーノヴナ(58)のイスラーエフ一家。

 それにアンナの話相手リザヴェータ・ボグダーノヴナ(37)、同居人でイスラーエフの友人ラキーチン(30)、ドイツ人でコーリャの家庭教師シャーフ(45)、新たにやってきたロシア語の家庭教師べリャーエフ(21)、従僕のマトヴェイ(40)、小間使いのカーチャ(20)。

 そして今回の舞台でゲイティス氏が演じる地域の医者のイグナーチイ・イリーチ・シュピーゲルスキイ(40)と、隣村の地主ボリシンツォーフ(48)。

(ヴェとしたところはすべて原文ではヱに濁点)




 作品の発表は1855年、初演は1872年。

 時代設定は1840年代、季節は夏、全場面がイスラーエフの家庭内である。物語の概略は以下の通りである。


善良だが平凡なアルカーヂイ・セルゲイッチを夫に持つナターリヤは、ラキーチンと節度ある関係を保ちつつ心を通わせあっていた。そこへ息子の家庭教師として、ベリャーエフがやって来る。素朴で内気な青年だが、子どもたちはよく懐く。

それからひと月足らず、シュピーゲルスキイは養女のヴェーロチカと年の離れた隣村の地主との縁談を持ち込む。当初は乗り気でなかったナターリヤだが、自らがベリャーエフに今までにない感情を抱いていることを自覚し、更にヴェーロチカが彼に思いを寄せていると確信することで、激しく動揺する。

そして各人苦悩の結果、ベリャーエフとラキーチンはあいついでイスラーエフ家を去り、ヴェーロチカもボリシンツォーフとの結婚によってイスラーエフ家を出ることを決意する。


 第一幕は大広間や書斎につづく客間、第二幕は庭、第三幕がまた客間、第四幕は庭の亭(あずまや)、第五幕でまた最初の客間に戻る。

 ここで気になるのが登場人物表の横に記された「第一および第二、第二および第三、第四および第五幕の間は各々一日たつてゐる。」の一文をどう解釈すべきかということだ。これは、内容を見ていけばわかることである。

まず、第二幕は第一幕の翌日である。(第一幕は夕方であるが、ナターリヤが訪ねてきたシュピーゲルスキイに「あなた、宅で食事をなさいますか?」と訊ね、第二幕で「シュピーゲルスキイさんはもう帰りましたかしら?」と言っていることから推測される。ドクトルはおそらくはイスラーエフ家に一泊して帰ったのだろう。)

また、第三幕も第二幕の翌日である。(ラキーチンはナターリヤに「わたしはもう一昨日から、あなたの心に何か変化が起こったと言ってるでしょう」と言っている。これは第一幕の日のことである。)第三、第四幕は同日で(前幕の最後にナターリヤが「わたしはあの人(ベリャーエフ)に手紙を書こう」と言って急いで書斎へ去った後、第四幕でベリャーエフがその鉛筆書きの手紙を手にしている。)、最後の第五幕はその翌日である。

第一幕でのベリャーエフの「わたしがここへ来てから、もう幾日になりますかねえ」という問いに、小間使いのカーチャ(ベリャーエフを慕っている)は「今日で二十八日目ですよ」と答えている。


こうして、物語の全ては夏の一ヶ月の最後の四日間の出来事だということがわかる。「村のひと月」という題名の理由である。

構成としては、第一幕、第二幕、第三・四幕、第五幕で起承転結にあたり、激動の三日間、そして全てが終わる四日目となっているので、リライトでThree Days in the Countryとされたのではないだろうか。


などと当たり前のことを長々と書いてしまい、またこの先も長くなってはいけないので、シュピーゲルスキイを中心にまとめたい。

シュピーゲルスキイは腕のあまりよくない医者である。彼は謝礼の馬車用の馬三頭を目当てに、なんとかボリシンツォーフとヴェーロチカの縁談を成立させようとイスラーエフ家の中を動き回る。機嫌の悪いナターリヤは彼を「あの田舎出来のタレイラン」と呼び、「頭ばかりぴょこぴょこ下げてるくせに、恐ろしく図々しい横柄のところがあつてね…仕様のない恥知らずよ」と評す。

しかし、シュピーゲルスキイのほうでも、リザヴェータにまったく実際的な求婚をしながら、ナターリヤをかなり辛辣に批評しているのである。彼は未来の妻に、自分の素顔について「わたしは他人にゃ笑っても見せますが、その実腹の中では、この馬鹿野郎め! うまく鉤に掛かってるのを知らないのか、と思ってるんですよ」と語る。しかしこれも、あるいは彼の手管なのかもしれない。人は他人に素顔らしいものを見せられると、心動かされるものだからだ。

なにもおしゃべりなのはシュピーゲルスキイだけではない。ナターリヤとベリャーエフも、未熟でおとなしいヴェーロチカでさえ自分たちの立場と思いをよくしゃべる。(それはもちろん演劇だからでもあるが。)現代人なら、同じ状況に置かれた時、沈黙のまま探り合いを続けるだけのような気がする。

だがナターリヤはそれによって自分の立場と安寧が崩れることがわかっていても、なお自分とは何なのか、誰なのかを知ろうとすることをやめられない。シュピーゲルスキイは「自分とはこういうもの」とあらかじめ決め込んでしまって、その裏と表を使い分けることで生きているのだが、どちらにせよ、自分の、人間の真の姿とはなんなのか? という作品全体にひかえめに漂う問いは、財産も名誉もない160年後の自分でも、自身に問い掛けて、答えることのできない難問だ。


物語の中で、健康的で現実的なカーチャの存在が爽やかだ。第四幕、カーチャは言う。
「あのリザヴェータ・ボグダーノヴナも、あのお医者の奥さんになるんだろう…(笑う)おお厭だ…わたしなんかちっとも羨ましかないわ…おや、まるで草が洗ったようだ…何ていい香りだろう」
ちっとも羨ましかないわ、とたろうも真似をして言ってみる。ああ、けれどもカーチャ、本当にそう言えるだろうか?


(引用は全て、文中で紹介した『ツルゲーネフ全集 第10巻』より。原文では旧字旧かな遣いのものを新字新かなに直した。)