【0.ル・グィンを男だと思っていた】
中学生くらいまで、ル・グィンを男だと思い込んでいた。なぜそう思い込んでいたのか。たぶん、日本でもっとも知名度の高いル・グィン作品は児童向けファンタジーとしての〈ゲド戦記〉(アースシー)シリーズだ。
児童書では余地の問題か、それとも子どもを混乱させるのを防ぐためかもしれない、外国の作者名は姓のみの表記であることも多い。そう、たとえば、コナン=ドイルとか。フルネーム表記を見れば、アーシュラ・K・ル・グィン(もしくはル=グウィン)はあきらかに女の人の名前である。アーシュラはウルスラ。「魔女の宅急便」のアニメにも出てくるウルスラ。
どうして男の人だと思い込んでいたのか。たろうが想像していたのは外国のがっしりした初老の男性だった。たろうにとって〈ゲド戦記〉は父親が子どもの頃から持っている三巻の古びた函入りの大きな本で、もしかしたら装画の中世写本調の男性像と作者像が混線したのかもしれない。それに中をぱらぱら見てみるとなんだか難しそうで、きっと気むずかしいおじさんが書いたのだろうと思い込んでいた。
『ライオンと魔女』を書いたC.S.ルイスも、『不思議の国のアリス』のルイス・キャロルも男性だから、〈ゲド戦記〉の作者も男性だと思ったのだろうか。本の作者というのは男性なのだとなんとなく思い込んでいたふしもある。いや、どうも思い出してみると子どもの頃は男性と女性の区別がついていなくて、人間は齢をとると魔法使いみたいな老爺になるような気がしていた気がするし、学者や作家というのは書斎に籠っている男性の姿でイメージされた。自分が女性だと気付いていたかもわからないところだ。自分がたんにmanだと思っていた、たろうの少年時代である。
ファンタジーにはそれほどのめり込まなかった。〈守り人〉シリーズの熱心な読者だったけれどそれは小学校高学年から中学にかけてで、ファンタジーとしてよりは現代作家の書いたジュブナイルととらえていた。〈ナルニア国物語〉の第一巻の『ライオンと魔女』はとても好きで何回も読んだが、以降の巻は読んだり読まなかったり、トールキンの長い物語は身近な図書館に置いていなかった。早いうちにホームズを入り口にミステリに興味が集中してしまい、そのうちいわゆる純文学に重心が移っていった。
SFにも疎かった。『透明人間』『タイムマシン』くらいの古典的名作を読んだくらいだった。もちろんル・グィンはSFジャンルの著名作家である。
それで、だいぶ長い間ル・グィンを男だと思い込んでいた。
それが、フェミニズム文学批評やフェミニズム思想史に多少の興味を持つようになると、ところどころでアーシュラ・K・ル・グィンに出会うようになる。
それでもまだ読まなかった。『闇の左手』は、偶然ひとから勧められたから読んだ。
【1.これはSFである。】
私はこの報告書を物語のようにしたためよう。わが故郷では幼時より、真実とは想像力の所産だと教え込まれたからである。まぎれもない事実もその伝え方で、みながそれを真実と見るか否かがきまるだろう。(中略)事実もまた鞏固ではなく、一様な光も放たず、無欠でもなく、真実の輝きを放つとは限らない。
(『闇の左手』第1章「エルヘンラングの行進」)」
『闇の左手』はこのように書きはじめられる。
添え書きには「オルールのスタバイルへ、ゲセン/惑星〈冬〉へ初派遣の使節ゲンリー・アイよりの報告書」とある。
原文では、' To the Stabile on Ollul:Report from Genly Ai,First Mobile on Gethen'。
初心者のたろうはハイニッシュ・ユニバース(ル・グィンによる、ハインを中心とした文明を描いた一連の作品)に詳しくないことをはじめにお断りしておきます。
そのいまのところ読んだ範囲によると、同じ小尾芙佐の翻訳によるハイニッシュ・ユニバースの中編「赦しの日」(「SFマガジン」2018年8月号)では「定着使節」と書いて「スタバイル」、「移動使節」と書いて「モバイル」とルビを振っている。あまりに遠い星とのやりとりのため、比較的近い拠点に留まる者と直接赴く者に役割を分け、stabileとmobileというもともとある単語に新しい意味を持たせている。スタバイルは一人とは限らないようで、複数人の「定着使節団」と考えてもよいだろうか。ゲンリー・アイは惑星ゲセンへの最初の「移動使節」である。
エクーメン暦1491年、地球出身の「使節」であるゲンリー・アイはゲセンにいる。ゲセン、別名を惑星〈冬〉は、いま氷河時代の寒冷な星であり、アイはこの星の人類との接触のためやってきた地球を含む83の惑星の連合からの初めての使節である。つまり、この物語はSFである。
物語は、アイやその他の調査隊が派遣元へ書き送った報告書や、ゲセンで採集された各種の伝説、昔話、言い伝え、そしてもう一人の主人公の手記により構成されている。つねに小説に尾いてまわるそもそもこれは「誰が」「いつ」「なんのために」そして「どのように」書いた文章であるのかという疑問はこのように解決される。
「私はこの報告書を物語のようにしたためよう。わが故郷では幼時より、真実とは想像力の所産だと教え込まれたからである。まぎれもない事実もその伝え方で、みながそれを真実と見るか否かがきまるだろう。(中略)真珠がそうであるように事実もまた鞏固ではなく、一様な光も放たず、無欠でもなく、真実の輝きを放つとは限らない。ただし両者とも繊細である。」
しかしこの書き出しはなんだろう。「わが故郷では幼時より」。とアイは書く。アイは地球人である。しかしこれは現在の地球の常識ではない。アイはのちにゲセン人の、というより「無知」の状態を重んじるハンダラ教徒であるエストラーベンの相対主義にやや苛立っているが、現在の地球の見方からすれば、アイのこの前置き自体がじゅうぶん相対主義的である。アイは真珠を喩えに挙げているが、アイの見方は対象をまさしく「玉虫色の」ものとして捉えるものである。
もっといえばこればいささか「女性的」な考え方、女性的な語り口である。あるいは文学的であるとも言えるかもしれない。地球で支配的な、冷静な、客観的な考え方は、いまのところ、真実はいつもひとつ、と考えている。
しかし、未来――ゲセンや地球をはじめとするいくつもの惑星が、かつて広範囲で繁栄を誇った人類による種の実験場であったことが判明した遠い未来――の地球からやってきた男であるアイは、このように考えている。これはSF小説なのだ。
【2.エストラーベンと「ミスタ・アイ」】
ゲンリーの窓口役となっているのがエストラーベンという人物である。
セレム・ハルス・レム・イル・エストラーベン。「レム・イル・エストラーベン」は称号であるので、姓名はセレム・ハルスである。ゲンリーはこの人物をもっぱら「エストラーベン」と呼び、つぎに「ハルスさん」、「ハルス」と呼ぶようになり、ついに「セレム」と呼ぶまでにはそれはもう大変なドラマがあるのである。そしてこの人は男でも女でもない。なぜならゲセンは両性具有人類の星だからである。
かれの故郷はカルハイド王国の中の領国のひとつであるケルム国の、その中の、エストレ領の領主の子で、現在のエストレ領主である(エストラーベンという称号は領地由来である。ストク領の領主ならストクベンになる)。かれの故郷は首都から遠く離れた、どこも寒いゲセンのカルハイドの中でも特に寒く寂しい山がちな田舎らしい。
そして、ハルス・レム・イル・エストラーベン(親しくない人物が正式に呼ぶ時はこうらしい)は、壮年から中年の若さでカルハイドの宰相を務めているところからしても、かなり優秀な官僚であり政治家である。ひじょうに穏やかで、知的で皮肉の利いた話し方をする。
が、じつはこのエストラーベン、後でわかることだが、スキー、野宿、肉体労働、狩り、身分証偽造もどんとこいの超行動アウトドア派なのだ!(電気工作も理屈はわかるよう、ただし泳げない。)知的で優雅なオーラのある由緒正しきヤンキーといったイメージをしてください。信仰心があつく、瞑想・断食の修行も積んでいる。その上もてる。超人である。スーパーキャラクターだ。
読んでいて読者はエストラーベンと比較するのでごく平凡で平均的な青年に思えてくるが、ゲンリー・アイのほうもなかなかのものである。調査隊が持ち帰った資料からカルハイド語を身に付け、通信機の扱いに精通し、交渉力に長けた宇宙飛行士並みかそれ以上のエリートである。
地球人であるゲンリーは、地球の人類としては平均的な大きさだが、ゲセン人たちの中ではにょっきり目立ってしまう。肌の色は浅黒い人の多いゲセンの人々よりも黒い。肌の色についてゲセン人に言われてゲンリーは言う。「土の色ですよ」。ゲンリーはアフリカ系人種の血を引いていて、LとRの発音の区別のある言語で名付けられていて、名字からするともしかしたら中国系でもあるかもしれない。彼は春にはサクランボの木が花ざかりになる土地の出身である。
「セレム」、「アシェ」、「ソルベ」……物語に登場するカルハイドの人々は人々はしばしば先祖や昔話の登場人物と同じ名を持ち、同じような役割を反復し、あたかも因果を繰り返すための役割を担っているようである。(この物語の時点においてカルハイドの王はアルガーベン15世、アルガーベン・ハルジであるが同じカルハイド王国を舞台とした短篇「冬の王」のアルガーベン17世によれば王家の世継ぎは代々アルガーベンまたはエムランと(交互に?)名付けられる。ハルジが王家の姓である。したがって王の従弟でエストラーベンの政敵チベ卿の姓名はぺメル・ハルジである。)
この星でただ彼自身であるのはゲンリー・アイただ一人である。彼の名前のゲセンの言葉との偶然の一致については作中でのちに語られる。また、男もゲンリー・アイただ一人である。
【3.エストラーベンは男性か? 女性か?】
これは遠い未来の話であるが、フィクションであるゆえに、多分に実際に書かれた60年代の観念を反映している。当然、90年代に生まれた私が2018年に読めば、多少の違和感が生じる。
ゲンリーはゲセン人を――彼に関係のある個別例としては特にエストラーベンを男女のどちらとしてとらえるかという点に固執して見える。
「食卓におけるエストラーベンは、女性的で、魅力と感受性にあふれ、実体を欠き、見た目には美しく如才ないと思った。彼に嫌悪や不信を感じるのは、この心地よいしなやかな女性らしさの故だろうか? 炉ばたの火が照らしだす暗がりの、私の横にすわっているこの色浅黒い皮肉屋の権力者を女と考えるのは不可能だ」
なぜだ?! なぜ不可能なのだ、ミスタ・アイ?!
もちろんこれは六〇年代当時までの男性の、そして著者自身もある程度慣れ親しんでいる感じ方考え方をフィクションの中で戯画化したものであり、アイをあまり責めるのは不当だけど。
彼の戸惑い様に、読んでいて私は「男でも女でもないのだから、男でも女でもないでいいじゃないか」と思ってしまう。しかし「エストラーベンを男と女どちらとして捉えるべきなのか?」という問題は一度考えておいたほうがよい問題であるかもしれない。なぜならば、エストラーベンを男であるかのように考えるのと女であるかのように考えるのでは物語の解釈が違ってくるからだ。
アイはエストラーベンに女性という存在をなんとか説明しようとする。それを聞いたエストラーベンの
「すると平等は普遍の法則ではないのですね? 彼らは知能的に劣っているのですか?」
という問いは現在の読者にも突き刺さる。充分に知性豊かなエストラーベンが、(男性は1例のみゲンリーを知っているものの)実際に女性を見たことがないためにこのように問うということは、その無邪気な問いが、ゲンリーの話から当然導き出される仮説だということだ。エストラーベンの問いに対してゲンリーは答える。
「さあどうだろう。あまり数学者とか作曲家とか発明家、哲学者などにはなりませんね。かといって彼らが愚かだというのではない。体は筋肉質ではないが男性より忍耐力はややまさっている(…)」
なにをねぼけたことを言っていやがる。
数学者とか作曲家とか哲学者として名を残すには、いくら才能を持っていても、その世界の権力に接近し多少なりともこれを手に入れなければならない。それに、「才能」が明らかになるには相応の教育を受けることへの障害が少なくなければならない。有史以来女性は男性と同じだけその機会を持っていたと言えるのか?
ゲンリーの捉え方はいささか無神経のようである。エストラーベンは気付いていないが。
おお、ミスタ・アイ! 宇宙の果てに航行できるようになってもまだそうなのか? これは60年代の終わりに1929年生まれの女性が書いた小説なのだから、2018年の女性作家が書いたらまた違うようになるだろう。70年代以降フェミニズム思想と運動はいくつもの観念の変革を成し遂げ、現実の社会を動かしてきたのだから。
しかしほんとうにそうだろうか。
自分が偉大な数学者や作曲家や発明家になれそうもないことが、ただ己の才と能の不足によるものではなく、自分の性別にあらかじめ自然が設けている限界なのではないか? 歴史上の偉大な男たちに並ぶことなど、はじめからどだい無理な話だったのではないか? 今まで不可能を夢見ていたのではないのか? という怖れは今でも女性を脅かしているのではないのか?
それはさておき。
エストラーベンを女と見るべきか男と見るべきか?
ゲンリーは思い悩んでいるが、これについては彼以前の調査隊の一員オング・トット・オポングの見解(7章「性の問題」)が簡潔で的確だろう。
「だれしも、なんでもやってみることができる。十七歳から三十五歳くらいまでのすべての人が(…)”出産にしばりつけられる”義務を免れないという事実は、ここでは、よその世界の女性のように完全に”しばりつけられる”ことがないということだ――心理的にも肉体的にも。(…)換言すれば、ここの人間はすべて、よその世界の自由な男子ほど自由ではないということだ。」
彼女はこうも書いている。
「しかし頭の中で、”かれ”という代名詞を使っていると、いっしょにいるカルハイド人が男ではなく、おとこおんなだという事実をともすれば忘れてしまう」
アイの困惑はアイだけの落ち度ではないのである。
性の問題、The problem of sex。
エストラーベンは男か、それとも女か?
That is the problem.
【4.エストラーベンを女性として捉えてみたい】
だから女でも男でもないんだってば。
しかし実際のところ『闇の左手』はやおい的に大変アツい物語なのである。ゲセン人の見た目はどちらかというと男性ぽいし、なんだか「自然に」アイとエストラーベンの男性同士の愛の物語のように読めてしまう。
たろうもM/M小説とか、BLと呼ばれるジャンルを多少たしなむが、しかしやっぱりエストラーベンを男としてみることは適切だろうか? という迷いが捨てきれない。
なぜ人はやおいをたしなむのか、という議論は古来飽きるほど繰り返されてきて、フジョシは耳にタコができている。
よく言われるように(読者が女性の場合)読者である自分をCG合成のグリーンバックのように消して楽しめるからかもしれないし、自他への女性嫌悪が隠れている場合もあるだろう。男と女だから、という安直な発想にあぐらをかいたラブ・ロマンスにはノれねーぜ! という心からBLを読んでいる場合には、そのあたりが繊細に考えられていれば、男女女男のラブ・ロマンスでももちろんかまわないわけだ。
ただ男と女だからって、あーた、ネジか磁石じゃないんだから、そんなバカな。人と人を引き寄せ合う磁力は個々人の人間性やめぐりあわせであるべきではないだろうか。
エストラーベンという人物のありようはまさしく「だれしも、なんでもやってみることができる」環境の結実そのものである。その上、かれは支配階級の由緒ある家柄の生まれであり、厳しい自然環境と教育の中とはいえ末っ子として可愛がられて育ったことだろう。かれは頭脳派で情念の人だが柔弱ではない。一人でなんでもできる完全体、パーフェクト・マンである。
そんなかれを「男」、男の中の男として見たら、それは作品の折角の微妙な部分を切り捨ててしまうことにならないだろうか?
もしもエストラーベンのように、先見性から宰相の地位まで上りつめ、信仰に励んで心身の制御まで身に付け、それらの能力の全てをかけて異星人の友人を守り、救い、励まし、過去の過ちの責任を自分の身に引き受けて始末をつけることができたら。それはかれが男性だったら、並大抵ではないとはいえ有り得るヒーロー像だけれど、女性だったらほとんど不可能である。作品が書かれた米国でも、たろうがそれを読んでいる日本でも未だ女性がエストラーベンのように宰相、あるいは総理大臣(Prime minister)になったことはない。この物語はSFなのだ。
まったく、女の身で、エストラーベンのように在れたら、それは女の誉れである、とたろうは考えてしまう。そんなの、余計な感慨なんだけど。
そこで、ひとまずのところ、私はエストラーベンを女として捉えてみたい。
【5.一周回って】
いや、だから、男でも女でもないんだけど。
だけど、エストラーベンを女性のように捉えたら、今度はまた別の問題が浮上してくる。
エストラーベンとアイの、常に緊張を帯びた、ほとんど恋愛に近い、プラトニックな関係が、ごくふつうの異性愛的関係の変奏に収まってしまうからだ。
これは一面では当然かつ妥当と考えてもよい。げんにふたりが密室で性的緊張関係に陥る場面で、エストラーベンははっきり女性のように描写されている。
「赤みがかった光をあびた彼の顔は、物おもいにふけりながら無言で相手を見つめている女の顔のように、たおやかで傷つきやすく遠い顔であった」
この時のエストラーベンは「女の顔」をしていたほうが、たぶん読者には想像しやすいし受け入れられやすいだろう。
けれどもかれは男でも女でもないのだ。
でも私は、ここで男でも女でもないのはエストラーベンだけではないような気がする。
何日も何十日も一対一で過ごす中で、アイとエストラーベンは地球人と異星人でも、単性人類と両性具有人類でもなく、他者と他者、自分と相手でしかなくなっていく。その時には性別は比較対象になる社会なしに曖昧になっていくし、自他の境界もときに曖昧になる。
人間の世界に帰って来た時、アイはもとのゲンリー・アイではない。
久々に自分の単性人類の同類11人に対面した時、アイは違和感をおぼえ、ゲセン人の医師に診察されて安らぎをおぼえる。
「彼のおだやかな声と顔、若く真面目な顔、男でも女でもない顔、人間の顔は、私にとって救いだった、見馴れた正常な顔は……」
アイの認識は、両性具有のゲセン人のほうに同化して、同類であるはずの男女に対して「異人」になってしまっている。それは彼がそのとき、(彼の感覚の上では)本来はそうであるはずの「男」ではないからだ。
「男ではない」ということを、「女である」ということと考えてみることもできるのではないだろうか。
つまり一周回って、アイとエストラーベンの関係は「百合」だということに……まあ、それはならない。
『闇の左手』の物語の内には女性はほとんど存在しない。アイは男であるし、ゲセン人は男性でも女性でもない。アイにとっても、彼の話を聞くエストラーベンにとっても、「女性」はずっと謎の他者である。それが私に疎外感のような、わずかなものたりなさのようなものを感じさせる。アイは戸惑っているが、最後に登場するアイの女性の同僚のヘオ・ヒュウの屈託のない様子は私をほっとさせる。それで、一周回ってこんなことを考えたのかもしれない。
【本文引用】
・アーシュラ・K・ル・グィン 著、小尾芙佐 訳『闇の左手』(ハヤカワ文庫、1977年)
・Ursula K. Le Guin, The Left Hand of Darkness(Gollancz,1969/2017)
【参考】
・「S-Fマガジン」(早川書房、2018年8月号)
・アーシュラ・K・ル・グィン 著、小尾芙佐 訳「冬の王」(『風の十二方位』ハヤカワ文庫、1980年)