2025年4月16日水曜日

水神様のいるところ:神代植物公園 水生植物園と深大寺

 


神代(じんだい)植物公園の水生植物園に行ってきました。本園には3月に行きましたが、本園だけでもなかなか広大で見どころも多く、水生植物園は深大寺に隣接した別の敷地にあるため、機会を改めることにしたのです。

桜が終わった平日の深大寺周辺は落ち着いた雰囲気で、水生植物園の園内では一年でおそらく最も華やぐ梅雨時の花菖蒲の時季を前に、各種の花菖蒲の苗が整然と植えられ、ほかにも軽トラックが停まって整備が行われていました。


 調布初訪問

東京調布といえば水木しげるゆかりの街として知られ、絵と神秘に対する感性を育てた境港市は「さかなと鬼太郎のまち」、30代の後半から亡くなるまで暮らしてプロダクションを置き、主な作品のほとんどが制作された調布市は「水木マンガの生まれた街」を掲げています。

私の場合、水木作品の中で最も親しんでいたのはちくま文庫の『鬼太郎夜話』で、いわゆる「ガロ版」と呼ばれているものです。こればかりを何度も繰り返して読んだので、今ではカバーの四辺はすっかり擦れています。

境港の水木ロードには小さい頃何回か連れて行ってもらったことがあるのに、アニメの鬼太郎はほとんど見たことがなく、でも「ゲゲゲの鬼太郎の歌」「カランコロンの歌」はもちろん知っていて、『鬼太郎夜話』『妖怪画談』『妖怪と歩く ドキュメント・水木しげる』などを愛読している――というのが自分の水木体験で、東京の深大寺に「鬼太郎茶屋」があることも知っていましたが(荒俣宏さんと水木さんの対談の収録場所になっていた気がします)行ったことは一度もなかったのでした。

そこで初めて深大寺を訪れたのは2024年の4月中旬(結局この年は6月に1回、11月に2回調布に行き、今年は既に3月、4月と調布に出掛けています。)、桜の名残がちらちらと降る西参道を上って、念願の鬼太郎茶屋で甘酒を喫してグッズを爆買い、深大寺そばを食べたのですが、あたりを歩き回っている時「水神苑」という看板が目に入りました(ここは高級な会席料理店で、さくら弁当6,600円、花見会席8,800円といったかんじなので、ふらっと行って入るお店ではありません)。また山内には「深沙(じんじゃ)大王堂」というお堂もあります。

「水神様」といえば『鬼太郎夜話』です。


 深大寺:水の染み出るところ
浮岳山深大寺は現在は天台宗の寺院ですが、創建733(天平5)年とかなりの古刹で、当初から深沙大王を主に祀っていました。前身の信仰はさらに古いでしょう。深沙大王は水神とも見なされています。
深大寺周辺には今でも山内や道沿いを小川が流れています。昨年の夏の大雨の後には、普段は水の流れていない建物のまわりから澄んだ水が染み出して滝のようになっている様子を寺の公式instagramが投稿していて、本当に水の豊かなところなんだと驚きました。
ただし、ソバは乾燥には強いものの湿潤に弱い作物です。「深大寺散策マップ」(調布市観光協会https://csa.gr.jp/contents/24130)に「江戸時代、深大寺の北の台地はそばの生産に向いていた為、小作人はそばを作り、そば粉を寺に納めました。寺ではそばを打って来客をもてなしたのが、深大寺そばの始まりと伝えられています」とあるように、北側と南側では土地の性質がけっこう違うようです。

東京都公園協会の「神代植物公園 開園50周年記念」ページ(https://www.tokyo-park.or.jp/special/jindai/history.html)では、植物公園になった土地について

もともと高台にあるため、水田のできる土地ではなく、桑畑が大半を占めていたそうです。

戦後、東京都の街路樹や公園のための苗木を育てる苗圃となり、一部で学校の遠足などで利用されていました。

としています。深大寺の敷地を挟んで、北側の高くなっている土地は樹林や庭園などの本園に、南側の野川に向かって低くなっている土地は水生植物園になったと考えてよいのでしょうか。水生植物園と隣り合った深大寺城跡のあたりは自然に小高くなっているため城郭に用いられています。ずばり、植物公園のパンフレットには、「この水生植物園は深大寺周辺から流れてくる水が集まって湿地帯になっていたところに、木道などを整備して公開したものです」とあります。




 植物公園になったところ
さて、お話は水生植物園に戻ってきました。
神代植物公園は1961(昭和36)年、東竜太郎都知事の時代(在任1959―67)に開園しました。緑地帯としての計画は、戦争を挟んでその20年ほど前から始まっていたようです。水生植物園の開園は1985(昭和60)年と、本園の開園から約30年後です。


深大寺そば店「元祖 嶋田屋」の5代目店主は2021年のインタビュー記事でその頃について次のように語っています。
(「『元祖 嶋田家』深大寺そばの元祖が語る歴史と魅力/深大寺そば巡りインタビュー」https://www.guidoor.jp/media/jindaiji-soba-shimadaya-interview/#i


戦後になって、京王電鉄が「金子駅」という駅名を「つつじヶ丘」というおしゃれな駅名に変えたんですよ。
「つつじヶ丘」周辺地域をアベックコース、ハイキングコースとして売り出したんですね。
「つつじヶ丘」は、武蔵野自然公園、深大寺へ歩いていけます。近藤勇のお墓がある龍源寺や、三鷹の東京天文台もありますし、沢があり、蛍も見えました。

 

(…)この辺に東京都の緑地帯があったんです。
関東大震災の後、東京の緑を育てなくてはいけない。そこで植物公園を作ろうということになり、そのために東京都が広大な土地を買い上げました。
先代も4反ほど畑や栗山などもあったそうですが、周囲の畑などと共にみんな東京都が買い上げちゃったんですね。それで昭和36年ごろ神代植物公園が開園しました。
この昭和30年代を境に、この周辺の農家さんたちはすごく減ってしまいましたね。

また中央高速ができ、調布インターチェンジができました。そこから車で10分、15分ほどで来られるという利便性もあって、以前は年間約130万人ほどのお客様がお見えになっていましたね。
そうして深大寺は緑に囲まれた、東京都民憩いの遊園の場として成長していったわけです。


水木しげるの最初の鬼太郎物語「墓場鬼太郎」は1960(昭和30)年に発表され、「鬼太郎夜話」は同年から翌年にかけて発表されました。調布の深大寺周辺が田畑や山林だった頃から、それが整備開発されていく時代にかけてのイメージが、ちょうどこの作品には反映されているのです。


 妖怪たちのいるところ

鬼太郎が生まれたのは調布の墓場、というのがだいたいの定説(?)で、ゲゲゲの鬼太郎が住む妖怪の森も布多天神社の森からつながっているというのは公式設定でもあります。

『鬼太郎夜話』でも調布や深大寺の周辺が主要な舞台になっています。が、その役どころは

場所は東京の郊外…… 調布市下石原(しもいしわら)というさびしいところ(中公文庫のみでちくま文庫にはなし)

東京(都下)調布のいなか

という、いかにも妖怪たちがのんびり暮らしていそうなもので、午前二(三)時には深大寺周辺の繁ったフキの下で妖怪たちのすきやきパーティーが開かれていたりするのです。

このフキの群生は深大寺の周りのどのあたりにあるのでしょう。フキをWikipediaで見てみると、「平地から丘陵地、山地までの原野、山野の土手や道端、空き地、川べりなど、日溜りでやや湿ったところに自生し、山では沢や斜面、河川の中洲や川岸、湖畔、林の際などで多く見られる。郊外でも河川の土手や用水路の周辺に見られ、水が豊富で風があまり強くない土地を好み繁殖する。」とあるので深大寺周辺ならどこでもいかにも当てはまりそうです。


ほかに「府中の先に蛇ヶ島という川の中の小さな島の中に大きな農家が一つこれで十万円!」という格安いわくつき物件が登場、これが「明治三十年以来売りに出されているが だれも買ったことがない」しろもので、住人はいませんが「物の怪(見た目は小豆洗い似)」が棲みついています。この家については「東京をさる百キロ 武蔵野のはて‥‥」「多摩川の上流に蛇ヶ島というとことがある」ともあって、府中の少し先くらいなら100kmということはないのでは、半分程度なのではと思うけれど、これはマンガ表現でしょう。

私は、作中の水神はどちらかといえばこの府中近辺に祀られている印象を持っていたのですが、深大寺そのものが水神とゆかりがあるとすれば、作者のイメージはむしろ深大寺あたりかもしれません。


でも、深大寺へ行けば水神様に会えるかといえば、そうではないようです。
値上げされた下宿の家賃と食費を稼ぐため、鬼太郎は借金の取り立てのバイトを始めます。大正時代からの元金と利子を返してもらおうと、水神様のお堂の拝殿に上がって直談判しようとしますが、「シイーン」。しかし熱心な信徒であるおばあさんたちはこの無礼を勘弁してはくれず、散々に打ち据えられた上ねずみ男が訓練していた蚊の採血部隊に全身を刺されてしまいます。
「水神をまつった神社が たくさんあるが…」と言う鬼太郎に、物の怪はこう答えます。
「あれはすべて迷信さ ほんとうの水神ってのはね…おっと」「七つの山と七つの森をこえていかなけりゃならないのだぜ」
そうして、鬼太郎は物の怪の案内で七つの山と七つの森を越え、ついにほんとうの水神様の住処を訪れて直談判に挑むのですが……。


 ねこやのあるところ

鬼太郎は「全生物の元祖」であり透明な細胞をもった水神様の怒りにふれ、逃げ出した水神は東京じゅうの水にひそみながら鬼太郎をつけねらいます。そしてついに鬼太郎を発見し

東京に記録的豪雨

多摩川決壊

水は速力 時速三十ノットで(約五十五キロメートル)で東京に向かってくる

ついに都内に進入!

と、大水害を起こして鬼太郎の住む下宿「ねこや」も大水に呑まれます。

この「ねこや」は、物語の初めでは谷中初音町にあることになっています。「ついに都内に進入!」の次のコマで流されているのは銀座四丁目の標識で、続くコマで鬼太郎たちが「逃げろ水神だ!」と下宿の屋根に逃げ延びているので、これはさほど不自然でないように見えます。


しかし……。じつはこれに先立って、あの「深大寺のすきやきパーティー」の招待状が届く場面で、はがきの宛先は「調布市富士見町一ノ九ノ一五 ねこや方 ゲゲゲの鬼太郎様」になっているのです。

さらに、にせ鬼太郎と組んで悪事を企んだねずみ男が、裏切られた腹いせに「にせ鬼太郎」と誤認して本物の鬼太郎をねこやの近所で襲った翌朝、にわかに楽天的になった鬼太郎がピースを吹かし喫茶店に入ってナンダカ族の男と出会う場面では、標識に「調布」とあり、その一方は「FOR FUDA(布田)」、一方は「FOR SI(...)RA(おそらく下石原)」を指しています。

多摩川が決壊すれば、下町よりも調布のほうが先に浸水しそうですが……。

私はこれまで(『鬼太郎夜話』の鬼太郎は台東区住み……!)と思っていたのですが、おそらく、下宿が谷中にあるという設定は、(赤ん坊の鬼太郎を拾い育て保護者役を務めていた会社員水木がフェードアウトしているのと同じように)連載が進んでいくうちに忘れられたか、棄却されて、実際には物語のほとんどは調布近辺を舞台にしているのです。
洪水後ねずみ男に連れて行かれ、召使にされていたアパートを脱して鬼太郎が手に入れた家も、「調布市富士見町…」の住所で、やはり鬼太郎は根っからの調布っ子なのかもしれません。




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水生植物園へ行き、本園と比べてみることで、深大寺周辺の地理の特徴がよくわかりました。
それから、今回読み返してみて、『鬼太郎夜話』では「住処を失う→住処を得る」というエピソードが繰り返されていることに気づきました。下石原のぼろ屋を追い出された目玉の親父と鬼太郎の父子がホラ穴で暮らすエピソードがある中公文庫のほうが、それがよりはっきりと表れていて、裏表紙の梗概に「住む場所をなくしあてもなくさまよう鬼太郎親子は(…)」とあるほどです。その鬼太郎が、物語の最後には
おれ いつも 寝るところが ないもんだから ちょっと 家がほしく なっただけだよ

と言うねずみ男に留守番を任せて「旅だよ」と出掛けていくのです(ちくま文庫版)。そしてどこからか聞こえてくる「ゲッゲッ ゲゲゲのゲ」。家がないわけではないけれど、小笠原でも四国でもふらりと現れて人助けをする〈「ゲゲゲの鬼太郎」の 完成〉という感じがします。