【『闇の左手』の原型としての「冬の王」】
「冬の王」と『闇の左手』に共通するのはもちろん舞台である。
『闇の左手』ではカルハイド王国と隣国オルゴレインが対比されつつ、主人公のアイが親しくなるのはカルハイド人であり、アイは苦難の末隣国からカルハイドに帰還し、アイの任務によりエクーメン同盟にまずカルハイドが加わる。なんだか、カルハイドと比べてオルゴレインの扱いはわりを食っているかんじもする。(まあ、カルハイドも因習深いし王さまはマッドだけど。)「冬の王」を見ると、作者がゲセンの中でも特にカルハイド王国を先に造型していたことがわかる。
「冬の王」の時代は、使節ゲンリー・アイと反逆者エストラーベンの物語の時代、すなわちアルガーベン15世の治世から4代あとのアルガーベン17世の治世(この間にエムランX世→アルガーベン16世→エムランX+1世と三世代が入るはずである)、主人公はアルガーベン17世そのひとである。(惑星〈冬〉の王の物語であるから「冬の王」なのだ。)〈彼女〉は22歳である。
アルガーベンは、一人で外出したところを何者かに誘拐され、約二週間にわたり薬物を投与され、精神操作で深層心理に何事かを植え付けられる。〈彼女〉にわかるのは恐怖のイメージだけで、誰に、何を暗示されたのかはわからない。王は、暗示によって不善を為すことを恐れ、アルガーベンは次代の王となるべきわが子と摂政に未来を託し、惑星間使節の使用する宇宙船で24光年離れたオル(ー)ルを目指す。
『闇の左手』を読んだ後に「冬の王」を読むと、ついついエストラーベン卿とアルガーベン17世に共通を見出してしまう。「冬の王」のアルガーベン・ハルジは『闇の左手』で描かれるカルハイド王には似ていない。むしろ王家に連ならない、王都から遠いエストレの領主であるセレム・ハルスのほうが似ているだろう。
かれらは二人とも故郷喪失者であり、亡命者であり、後述するように子どもと引き離された親である。
もっとも、22歳のアルガーベンは中年のエストラーベンほどエニグマティック、アルカイックなキャラクターではない。〈彼女〉はエストラーベンと違ってあやまちの「影」を引いてはいない。「若き王」はもっと明るく、人なつこく、才気煥発といった雰囲気で、あるいは若い頃のエストラーベンはこのようであったかもしれない。
アルガーベン王と異星人である全権使節アクストの関係も、エストラーベンと初使節アイの関係をやや思わせる。王はアクストと並んで座り、異星人であるために却って最も信頼できる相手として洗脳への危惧と亡命の意志を打ち明ける。王とアクストの関係は元宰相と使節のものよりはずっとビジネスライクでドライではあるが、アクストは最終的にはその願いを受け入れ(むろん同盟の同意のもとに)後押しする。
ほかにもアクストの「全権使節は重い外套をひきよせた。彼は寒かった。ここへ来て七年間、ずっと寒かった。」などは、アイの「この星へ来てからずっと寒いのです」という言葉を思わせる。
二つは別の物語であるが、短編は長編の原型でもある。
【代名詞の問題】
「冬の王」において主人公のアルガーベンは〈彼女〉と指し示される。それは別に不思議ではないように思われる。両性具有人類なのだし、子どもも産んでいるようであるから。
しかし、最初に発表された時はアルガーベンをはじめとするゲセンの人々には〈彼〉という代名詞が使われていたのである。
ル・グィンは作品の前に付されたはしがきで、こう書いている。
「この物語を書いたのは、長編『闇の左手』に着手する一年前であったが、その時は、惑星〈冬〉あるいはゲセンの住民が両性具有者であることは知らなかった。本篇が活字になって世に出るころに、私はその事実を知ったのだが(後略)」
ゲセンの気候、カルハイド王の代々の狂気、などはすでに「冬の王」で形を与えられていたにもかかわらず、『闇の左手』のきもであるように見える両性具有人類の生態は「冬の王」初稿の段階ではまだ組み込まれていなかったのである。
著者は次のように続けていて、この代名詞の書き換えが両性具有という設定に整合性をつけるのはもちろんだが、その書き換えがフェミニズム的観点に基づいていることがわかる。
「多くのフェミニストたちは『闇の左手』を読んで嘆き、あるいは不満を感じているようである。(略)英語の総称代名詞の三人称単数は、男性形によってあらわされる。そしてそれが、逃れようのない罠なのだ」
代名詞の問題は、「冬の王」初稿段階ではゲセンの人々は両性具有ではなかったから問題にはならなかった。『闇の左手』が刊行されて、「ゲセン人は男性ではなく両性具有なのに男性代名詞〈彼〉を使用するのは適切なのか?」という疑問があがる。のちに「冬の王」を世界観を同じくする作品として改稿する際に「代名詞問題」は遡って適応され、著者は代名詞を書き替えた。
アルガーベンが「彼」であり、ゲセンが両性具有の星ではなかった時、「彼」は暫定的に「男性」だったのだろうか。
これは「最初に発表されたバージョンを」「原語の英語で」読まなければ正確にはなにもわからないことである。たろうにはその機会も能力もありそうにない。
しかし手元にある材料だけでとりあえず考えてみよう。
【「冬の王」のエディプス的要素】
ル・グィンは書いている。
「この物語の登場人物の両性具有の問題は、物語中の出来事とはほとんど関係がないのだが、代名詞を変えたことによって、親と子の中心的、逆説的関係が、前稿では、一種のエディプス伝説の裏返しのように見えたかもしれないが、じつはそうではなく、なじみのない、いっそう曖昧なものだということをはっきりさせたと思う。」
それに対して安田均はハヤカワ文庫の解説でこう述べている。
「どうやら彼女(引用者注:フェミニズム的観点をとる評論家スーザン・ウッド)もル・グィンも、男性名詞を女性名詞に変えた改稿版「冬の王」が気に入っているようだが、著者などには初出段階のほうがおもしろかった。やはりエディプス的祖型の効果は大といえるのではないか?」
では、「冬の王」におけるエディプス伝説的要素とはどのような点だろうか。
エディプスの物語、そしてそこから作られたエディプス・コンプレックスの観念では、前提として「父」「母」「子」の関係がある。(この場合エディプスは男性なので「子」とは「息子」であり、「エディプス・コンプレックス」の下位概念として母娘関係の「エレクトラ・コンプレックス」が置かれているようだ。)息子は異性の親(母親)には愛着を持ち、同性の親(父親)には敵意や不安を持つとされる。
「長じて父を殺し、母を妻とするだろう」という神託により赤ん坊の時に捨てられたエディプスが、結局それと知らずに父を殺し、それと知らずに母と結婚する。やがて真実を知ったエディプスは自らの両目を潰し、自分の娘に手を取られて放浪の旅に出る。
ゴシウォルは王の御前でのみ演奏される楽器であり、陰々とした咆哮をとどろかせる。四十のゴシウォルの合奏は、人々の正気をゆさぶり、エルヘンラングの塔を揺さぶり、(略)これが王室楽団だとすれば、カルハイドの歴代の王がすべて狂人だとしても不思議はない。(『闇の左手』第1章)
アルガーベン17世は、代々のカルハイド王には例外的に狂気をもたない。
アルガーベンはかつて自分が育ち、現在わが子を育てている子供部屋を「残虐な両親から、冷酷で無頓着な狂気の王から逃れていられるあの小さな塔の寝室」と回想している。
「エムラン王の愚鈍さと暴虐の治世が、狂気の影と国威の失墜のうちに終わったのちに、彼女があらわれたのだ。(略)この王国にただ一度かぎりあらわれた、生まれながらの王。」
22歳の時点で〈彼女〉はその実績で「親」のエムランを上回り、圧倒している。そして天然の狂気を免れても今度は人工の狂気によってハルジ王朝の狂気の血脈の中へ引きずり込まれようとしながら、これに抵抗する。「親のように生きないこと」を「父殺し」の一種と見ることもできる。
アルガーベンが去ったあと、子のエムランは、やがて狂気に陥り、エクーメンとの同盟を破棄、首都を隣国に譲り渡すなど破滅的な政策に出る。これはあたかも輝かしいアルガーベン17世の統治の成果をぶちこわすかのような行いであって、これもまた一種の父殺しと見ることもできるであろうか?
しかしエムランは国内の信望を失い、多くの領邦が反旗を掲げる。反逆者として追放された心ある廷臣たちは帰還したアルガーベンを立ててエムランのもとに向かうが、アルガーベンが到着した時にはエムランは既に自害して死んでいる。
エディプスの図式では子が親を乗り越えるべきところを、「親が子を乗り越えて」しまい、アルガーベンは子が死んだ後の時代を生きる。
「冬の王」はエディプス伝説における父-息子の図式はひとまず満たしているが、母‐息子の図式が当てはまらない。アルガーベンの配偶者、アルガーベンの親の配偶者がほとんどまったく登場しないからである。両性具有の世界では、「母/父」の概念がなく、「産んだ親」とそうでない親がいるだけである。「異性の親」という概念が成立しないために、親子間の近親相姦はあり得るがエディプス・コンプレックスは成立しえない。
ゲセンの人類が両性具有人類であることがゲセンの社会形成に与える影響は『闇の左手』からは以下のように読み取れる。
●父親/母親の区別の観念がなく、子は「産んだ親」の氏族に分類される。名前は「産んだ親」の姓を受け継ぐ。子の養育・教育は氏族の共同体が担い、時代が下ると地域共同体や都市の学校がこの役割を果たすため、親子関係は比較的希薄である。「母性愛」や「父殺し」の観念は存在しない。
しかしそもそもたろうはエディプス祖型についてよくわかっていないのだから、「冬の王」がエディプス神話の倒立や変形であるかどうか、たろうにはよくわからなかった。
改稿版「冬の王」を改めて読むと、たしかに、ゲセン人が両性具有人類であることは大筋にさほど関わってこない。この作品はまさに冒頭にあるとおり「カルハイドの王位継承の奇妙なケース」を描いたものであり、重要なのは親‐子の関係であってその性別(や性別のなさ)はさほど影響を及ぼさない。
とはいえ、遡って両性具有の設定を導入すること、あるいは「代名詞問題」は単に「彼」と「彼女」を書き換えるだけで解決するわけではない。その他にも多少の部分が加筆修正されていると考えられる。(たとえば、「表情豊かな、美しい、両性具有の王の顔」、「はじめて生んだ子に乳をやりに来たのもここだった」などのような箇所は加筆修正部分かもしれないと思われる。)
また加筆修正「部分」は多少でも加筆修正の「影響」は小さいとは限らない。
ここで「冬の王」『闇の左手』の発表や改稿の時期の前後関係について整理してみたい。
①「冬の王」初稿執筆・発表(☆発表1969年)
↓(両性具有の発見)
②『闇の左手』執筆・発表(☆発表1969年)
↓(代名詞についての反響)
③「冬の王」改稿版発表(代名詞の書き換え)(☆短編集刊行1975年)
(④「ジェンダーは必然か? 再考」1976/1987年)
「冬の王」は『闇の左手』執筆以降に改作されているため、改稿版は『闇の左手』と前提を同じくしていると考えてよいだろう。
ル・グィンは『闇の左手』第7章で女性調査員に調査メモで次のように考察させている。
「子供は、母親と父親に対して精神的性的な関係をもたない。惑星〈冬〉にはエディプスの神話は存在しない。」
最終的に、ゲセンを両性具有人類の星に設定することで、作者はエディプスの類型を手放してしまっている。
さて、改稿版「冬の王」ではエムランはおそらくアルガーベンの産んだ子である。
とすると、短編集『風の十二方位』で「冬の王」を読む読者はこの本の最初に収録されている作品との類似に気付く。
「セムリの首飾り」である。
【「セムリの首飾り」との共通】
「セムリの首飾り」の主人公セムリは、「浦島効果」によって(アルガーベンと同じ。セムリの場合は16年、アルガーベンの場合は約60年が経過している)帰って来た時には夫は既に死没し、幼児だった娘は美しく成人している。セムリの娘のハルドレはアルガーベンの子のエムランのように老いても死んでもいない。しかし作品のラストは似ている。旅立つ前の子との別れの場面も似ている。以下がそれぞれの作品のラストの一部である。
「これを受けとって、これを受けとって。これはダーハルとハルドレのもの、長い夜の果てからわたしがもってきたのですよ!」
セムリは大声でさけぶと身をよじり頭をさげて首飾りをおとしましたので、首飾りは石床におちて冷たい透明な音をたてました。
「さあ、もっておいき、ハルドレ!」(「セムリの首飾り」)
アルガーベンは亡骸の上にかがみこんで、その冷たい手をとり、老人のごつごつした人さし指から、彫刻をほどこした大きな金の指輪を抜こうとする。だがやめてしまう。「はめておいで」と彼女はささやく。「はめておいで」と。(「冬の王」)
失われて取り返せない時間の代わりに、産みの親は子にせめても首飾りや指輪しか与えてやることはできない。
【誰がソルベ・ハルスを産んだのか】
「冬の王」と「セムリの首飾り」が共通する部分を持っていると考えると、こんどはたろうには、『闇の左手』を読んで謎だった部分が思い出された。
エストラーベンの子であるソルベ・ハルスを産んだのは結局誰だったのかということである。
ソルベは同腹のきょうだいであるエストラーベン(セレム)とアレクの間に生まれた子であるため、どちらにせよハルスの名を継ぐことになる。
ここにはゲセンでもタブーである近親相姦の問題が絡むのだが、アレクの死の経緯や原因、時期が曖昧なように、ソルベを産んだのがアレクとセレムのどちらなのかも、曖昧である。
また、いまひとり関係のあったアシェ・フォレスとの間の二人の子の場合は、エストラーベンは「父親」なので子どもたちはフォレスの姓に属している。
で、たろうは初読、再読となんとなくセレムは「父親」だったのではないかと思い込んでいた。
セムリとアルガーベンはどんな形であれわが子のもとに戻って来るが、エストラーベンは永遠に帰らない。エストラーベンは異星人のアイを自らの代理として、アイの言葉によれば「愚者の使い」として、自分の親とわが子ソルベに生の証である手記とアイの証言を託す。
大義を優先して勝手にどこかで死んでしまう、こういうありかたは、なんとなく「父親」的だ。ソルベはただでさえすでに片親を亡くしているというのに。その上エストラーベンの死に方は自殺ととれなくもない最後であり、これはカルハイドでは倫理的逸脱であり、大きな不名誉ということになっている。(アレクの死についてもどうやら自死がにおわされている?)
しかしそのつもりで読み返してみれば、「息子に長い文をしたためる。(…)予はなぜかかる手記をしたためているのか? 息子に読ませんがため?(11章)」、「思いはおのずと郷と息子の上におよび(…)(16章)」というような思いが、単に遺伝的・社会的跡継ぎへの思いのみならず、血を分け肉を裂いて産んだ子への思いであってもまったく不思議はないのである。
アレクとセレムの関係はセレム(エストラーベン)の「わたしより一つ年上だった。エストレの領主になるはずだった。わたしたちは……わたしは故郷を出た、知っているかもしれないが、彼のために。兄は十四年前に死んだ」というような短い言葉で説明されるだけだが、2章「ブリザードのこちら」、9章「叛逆者エストラーベン」などの挿話から読者には類推できるようになっている。
「叛逆者エストラーベン」の言い伝えは、カルハイドの中のケルム国内で隣接して反目するエストレ領とストク領の争いを背景にしている。エストレ領のアレクとストク領のセレムが結ばれたことによりアレクは命を落とし、ひそかにハンダラ教の宗教的共同体である「砦」で出産したセレムは子をエストレの跡継ぎとして託し、〈セレム〉の名付けをエストレにもたらす。
アレクとセレムという名の組み合わせは命を落とすアレク、産まれた子を託して姿を消すセレムという図式をエストラーベンきょうだいへあてはめることを誘っているかのようだ。エストラーベン(セレム)は砦での修行経験があると述べているのである。
(ただし、隣国の伝説である17章「オルゴレインの創世神話」では最初の人類エドンデュラスを妊娠させるのは名前未詳の弟であるので、これをどうとらえるべきだろうか。)
エストラーベンは「母親」だったのではないか?
カルハイドにおける継承の慣習では、王や領主自身が産んだ子が優先される。
となると、エスバンズ・ハルス・レム・イル・エストラーベンは、単に現在のエストラーベン卿、亡きエストラーベン卿の親であるのみならず、ソルベの祖母にしてアレクとセレムの母ということになる。石造りの薄暗い部屋で車椅子に座っているのは産んだ跡継ぎを二人とも、しかも恥辱を伴って失った母なのである。部屋の中には異人と、子を失った老いた(母)親、(母)親を失った子がいる。老人と若者のあいだには一世代の空白がある。
アルガーベン(15世)の懐妊と流産のエピソードもなにやら暗示的に見えてくる。
【いろいろな本を読んでみる】
このあたりまで書いたところで「日本の古本屋」で注文していた『世界の果てでダンス ル・グウィン評論集』が届いた。
この本に入っている「ジェンダーは必然か? 再考」が読みたかったのです。
『闇の左手』についてのこの文章は76年に発表され、87年に以前の文章を削ったり覆い隠さないかたち(〔〕を使ったかたち)で加筆されている。
ここでル・グィンは次のように述べている。
「(…)さらに悔やまれるのは、ゲセン人の生理機能がもつ精神的な含みを追求する上で、疑いもなく臆病さと不手際を暴露してしまったことである。(略)この領域における主たる欠陥は、しばしば私が受ける批判に表れているとおりである。ゲセン人が男女両性具有者ではなく、男性(原文「男性」に傍点)のように見えるという点である。
この原因のひとつは代名詞の選択に由来している。」
またエストラーベンの人物造型についてこう書いている。
「不幸にも、私が作品の構想を練っているときに生まれた本のプロットと構成は、ゲセン人の主人公エストラーベンに、私たちが文化的に「男性」として受けとめることを条件づけられている役割をほとんど独占的に与えることになってしまった――首相(ゴルダ・メイヤーやインディラ・ガンジーでさえ固定観念を破るには充分ではない)、政治的陰謀家、逃亡者、脱獄囚、そりの曳き手……、私がこのような役割を設定したのは、こうしたことを男性ではなく男性女性がやってのけること、しかも相当な技量と能力を発揮しながら実行することを観察して、私は個人的な喜びを味わっていたからではないかと思う」
先生、現在の 読 者 で あ る 私 も お な じ で す !
相当な技量と! 能力! エストラーベン卿かっっっこいいもんねえ……。
さて、この後はどう続くのだろう?
私たちが無意識のうちに「女性」のものとして受け止めている役割という点では、誰もエストラーベンを彼自身の子供を持つ母親とは見ない。〔「彼」を抹消。〕それゆえ、私たちはどうしても彼を男として見てしまう。〔「彼を」というように引用符をおつけ下さい。〕
そうかー。やっぱり、ソルベ・ハルスの産みの親はエストラーベンなのかもしれない。
というわけでこの件はいったん落着!
じつは、やはり「日本の古本屋」で注文した小谷真理先生の『女性状無意識』も届いたのです。頭から読まずに、「父権制下の両性具有 ――アーシュラ・K・ル=グウィン『闇の左手』を読む」から急いで読むと、「両性具有」については単純な問題ではないみたい。
そも、たろうが↑でこちゃこちゃ書いているようなことにいったい意味があるんでしょうか。
アマゾンで頼んだユリイカの特集号だけがまだ来ないなあ……。
【本文引用】
・ル・グィン、小尾芙佐 訳「冬の王」(『風の十二方位』ハヤカワ文庫、1980年)
・ ・ル・グィン、小尾芙佐 訳「セムリの首飾り」(『風の十二方位』ハヤカワ文庫、1980年)
・ル・ウィン、篠目清美 訳『世界の果てでダンス ル・グウィン評論集』(白水社、1991年)(DANCING AT THE EDGE OF THE WORLD,1989)
【参考】
・小谷真理『女性状無意識 テクノガイネーシス――女性SF論序説』(勁草書房、1994年)