2018年9月16日日曜日

誰がソルベ・ハルスを産んだのか 短編「冬の王」と長編『闇の左手』

 ル・グィンの初期の短編作品をほぼ執筆年代順に収録した『風の十二方位』には「ハイニッシュ・ユニバース」ものや「アースシー」ものを含まれていて、「冬の王」もハイニッシュ・ユニバースの作品のひとつである。『闇の左手』の舞台惑星ゲセンの物語で、いわば原型であると同時に先に書かれた後日譚である。



【『闇の左手』の原型としての「冬の王」】


「冬の王」と『闇の左手』に共通するのはもちろん舞台である。
『闇の左手』ではカルハイド王国と隣国オルゴレインが対比されつつ、主人公のアイが親しくなるのはカルハイド人であり、アイは苦難の末隣国からカルハイドに帰還し、アイの任務によりエクーメン同盟にまずカルハイドが加わる。なんだか、カルハイドと比べてオルゴレインの扱いはわりを食っているかんじもする。(まあ、カルハイドも因習深いし王さまはマッドだけど。)「冬の王」を見ると、作者がゲセンの中でも特にカルハイド王国を先に造型していたことがわかる。
 
「冬の王」の時代は、使節ゲンリー・アイと反逆者エストラーベンの物語の時代、すなわちアルガーベン15世の治世から4代あとのアルガーベン17世の治世(この間にエムランX世→アルガーベン16世→エムランX+1世と三世代が入るはずである)、主人公はアルガーベン17世そのひとである。(惑星〈冬〉の王の物語であるから「冬の王」なのだ。)〈彼女〉は22歳である。
 アルガーベンは、一人で外出したところを何者かに誘拐され、約二週間にわたり薬物を投与され、精神操作で深層心理に何事かを植え付けられる。〈彼女〉にわかるのは恐怖のイメージだけで、誰に、何を暗示されたのかはわからない。王は、暗示によって不善を為すことを恐れ、アルガーベンは次代の王となるべきわが子と摂政に未来を託し、惑星間使節の使用する宇宙船で24光年離れたオル(ー)ルを目指す。

『闇の左手』を読んだ後に「冬の王」を読むと、ついついエストラーベン卿とアルガーベン17世に共通を見出してしまう。「冬の王」のアルガーベン・ハルジは『闇の左手』で描かれるカルハイド王には似ていない。むしろ王家に連ならない、王都から遠いエストレの領主であるセレム・ハルスのほうが似ているだろう。
 かれらは二人とも故郷喪失者であり、亡命者であり、後述するように子どもと引き離された親である。
 もっとも、22歳のアルガーベンは中年のエストラーベンほどエニグマティック、アルカイックなキャラクターではない。〈彼女〉はエストラーベンと違ってあやまちの「影」を引いてはいない。「若き王」はもっと明るく、人なつこく、才気煥発といった雰囲気で、あるいは若い頃のエストラーベンはこのようであったかもしれない。

 アルガーベン王と異星人である全権使節アクストの関係も、エストラーベンと初使節アイの関係をやや思わせる。王はアクストと並んで座り、異星人であるために却って最も信頼できる相手として洗脳への危惧と亡命の意志を打ち明ける。王とアクストの関係は元宰相と使節のものよりはずっとビジネスライクでドライではあるが、アクストは最終的にはその願いを受け入れ(むろん同盟の同意のもとに)後押しする。

 ほかにもアクストの「全権使節は重い外套をひきよせた。彼は寒かった。ここへ来て七年間、ずっと寒かった。」などは、アイの「この星へ来てからずっと寒いのです」という言葉を思わせる。
 二つは別の物語であるが、短編は長編の原型でもある。


【代名詞の問題】


 「冬の王」において主人公のアルガーベンは〈彼女〉と指し示される。それは別に不思議ではないように思われる。両性具有人類なのだし、子どもも産んでいるようであるから。
 しかし、最初に発表された時はアルガーベンをはじめとするゲセンの人々には〈彼〉という代名詞が使われていたのである。
 
 ル・グィンは作品の前に付されたはしがきで、こう書いている。
「この物語を書いたのは、長編『闇の左手』に着手する一年前であったが、その時は、惑星〈冬〉あるいはゲセンの住民が両性具有者であることは知らなかった。本篇が活字になって世に出るころに、私はその事実を知ったのだが(後略)」
 ゲセンの気候、カルハイド王の代々の狂気、などはすでに「冬の王」で形を与えられていたにもかかわらず、『闇の左手』のきもであるように見える両性具有人類の生態は「冬の王」初稿の段階ではまだ組み込まれていなかったのである。

 著者は次のように続けていて、この代名詞の書き換えが両性具有という設定に整合性をつけるのはもちろんだが、その書き換えがフェミニズム的観点に基づいていることがわかる。
「多くのフェミニストたちは『闇の左手』を読んで嘆き、あるいは不満を感じているようである。(略)英語の総称代名詞の三人称単数は、男性形によってあらわされる。そしてそれが、逃れようのない罠なのだ」

 代名詞の問題は、「冬の王」初稿段階ではゲセンの人々は両性具有ではなかったから問題にはならなかった。『闇の左手』が刊行されて、「ゲセン人は男性ではなく両性具有なのに男性代名詞〈彼〉を使用するのは適切なのか?」という疑問があがる。のちに「冬の王」を世界観を同じくする作品として改稿する際に「代名詞問題」は遡って適応され、著者は代名詞を書き替えた。

 アルガーベンが「彼」であり、ゲセンが両性具有の星ではなかった時、「彼」は暫定的に「男性」だったのだろうか。
 これは「最初に発表されたバージョンを」「原語の英語で」読まなければ正確にはなにもわからないことである。たろうにはその機会も能力もありそうにない。
 しかし手元にある材料だけでとりあえず考えてみよう。

【「冬の王」のエディプス的要素】


 ル・グィンは書いている。
「この物語の登場人物の両性具有の問題は、物語中の出来事とはほとんど関係がないのだが、代名詞を変えたことによって、親と子の中心的、逆説的関係が、前稿では、一種のエディプス伝説の裏返しのように見えたかもしれないが、じつはそうではなく、なじみのない、いっそう曖昧なものだということをはっきりさせたと思う。」

 それに対して安田均はハヤカワ文庫の解説でこう述べている。
「どうやら彼女(引用者注:フェミニズム的観点をとる評論家スーザン・ウッド)もル・グィンも、男性名詞を女性名詞に変えた改稿版「冬の王」が気に入っているようだが、著者などには初出段階のほうがおもしろかった。やはりエディプス的祖型の効果は大といえるのではないか?」

 では、「冬の王」におけるエディプス伝説的要素とはどのような点だろうか。
 エディプスの物語、そしてそこから作られたエディプス・コンプレックスの観念では、前提として「父」「母」「子」の関係がある。(この場合エディプスは男性なので「子」とは「息子」であり、「エディプス・コンプレックス」の下位概念として母娘関係の「エレクトラ・コンプレックス」が置かれているようだ。)息子は異性の親(母親)には愛着を持ち、同性の親(父親)には敵意や不安を持つとされる。
 「長じて父を殺し、母を妻とするだろう」という神託により赤ん坊の時に捨てられたエディプスが、結局それと知らずに父を殺し、それと知らずに母と結婚する。やがて真実を知ったエディプスは自らの両目を潰し、自分の娘に手を取られて放浪の旅に出る。

 ゴシウォルは王の御前でのみ演奏される楽器であり、陰々とした咆哮をとどろかせる。四十のゴシウォルの合奏は、人々の正気をゆさぶり、エルヘンラングの塔を揺さぶり、(略)これが王室楽団だとすれば、カルハイドの歴代の王がすべて狂人だとしても不思議はない。(『闇の左手』第1章)

 アルガーベン17世は、代々のカルハイド王には例外的に狂気をもたない。
 アルガーベンはかつて自分が育ち、現在わが子を育てている子供部屋を「残虐な両親から、冷酷で無頓着な狂気の王から逃れていられるあの小さな塔の寝室」と回想している。

「エムラン王の愚鈍さと暴虐の治世が、狂気の影と国威の失墜のうちに終わったのちに、彼女があらわれたのだ。(略)この王国にただ一度かぎりあらわれた、生まれながらの王。」

 22歳の時点で〈彼女〉はその実績で「親」のエムランを上回り、圧倒している。そして天然の狂気を免れても今度は人工の狂気によってハルジ王朝の狂気の血脈の中へ引きずり込まれようとしながら、これに抵抗する。「親のように生きないこと」を「父殺し」の一種と見ることもできる。
 アルガーベンが去ったあと、子のエムランは、やがて狂気に陥り、エクーメンとの同盟を破棄、首都を隣国に譲り渡すなど破滅的な政策に出る。これはあたかも輝かしいアルガーベン17世の統治の成果をぶちこわすかのような行いであって、これもまた一種の父殺しと見ることもできるであろうか?
 しかしエムランは国内の信望を失い、多くの領邦が反旗を掲げる。反逆者として追放された心ある廷臣たちは帰還したアルガーベンを立ててエムランのもとに向かうが、アルガーベンが到着した時にはエムランは既に自害して死んでいる。
 エディプスの図式では子が親を乗り越えるべきところを、「親が子を乗り越えて」しまい、アルガーベンは子が死んだ後の時代を生きる。

 「冬の王」はエディプス伝説における父-息子の図式はひとまず満たしているが、母‐息子の図式が当てはまらない。アルガーベンの配偶者、アルガーベンの親の配偶者がほとんどまったく登場しないからである。両性具有の世界では、「母/父」の概念がなく、「産んだ親」とそうでない親がいるだけである。「異性の親」という概念が成立しないために、親子間の近親相姦はあり得るがエディプス・コンプレックスは成立しえない。

  ゲセンの人類が両性具有人類であることがゲセンの社会形成に与える影響は『闇の左手』からは以下のように読み取れる。
●父親/母親の区別の観念がなく、子は「産んだ親」の氏族に分類される。名前は「産んだ親」の姓を受け継ぐ。子の養育・教育は氏族の共同体が担い、時代が下ると地域共同体や都市の学校がこの役割を果たすため、親子関係は比較的希薄である。「母性愛」や「父殺し」の観念は存在しない。

 しかしそもそもたろうはエディプス祖型についてよくわかっていないのだから、「冬の王」がエディプス神話の倒立や変形であるかどうか、たろうにはよくわからなかった。

 改稿版「冬の王」を改めて読むと、たしかに、ゲセン人が両性具有人類であることは大筋にさほど関わってこない。この作品はまさに冒頭にあるとおり「カルハイドの王位継承の奇妙なケース」を描いたものであり、重要なのは親‐子の関係であってその性別(や性別のなさ)はさほど影響を及ぼさない。
 とはいえ、遡って両性具有の設定を導入すること、あるいは「代名詞問題」は単に「彼」と「彼女」を書き換えるだけで解決するわけではない。その他にも多少の部分が加筆修正されていると考えられる。(たとえば、「表情豊かな、美しい、両性具有の王の顔」、「はじめて生んだ子に乳をやりに来たのもここだった」などのような箇所は加筆修正部分かもしれないと思われる。)
 また加筆修正「部分」は多少でも加筆修正の「影響」は小さいとは限らない。

 ここで「冬の王」『闇の左手』の発表や改稿の時期の前後関係について整理してみたい。

 ①「冬の王」初稿執筆・発表(☆発表1969年)
   ↓(両性具有の発見)
 ②『闇の左手』執筆・発表(☆発表1969年)
   ↓(代名詞についての反響)
 ③「冬の王」改稿版発表(代名詞の書き換え)(☆短編集刊行1975年)

 (④「ジェンダーは必然か? 再考」1976/1987年)


「冬の王」は『闇の左手』執筆以降に改作されているため、改稿版は『闇の左手』と前提を同じくしていると考えてよいだろう。
 ル・グィンは『闇の左手』第7章で女性調査員に調査メモで次のように考察させている。
「子供は、母親と父親に対して精神的性的な関係をもたない。惑星〈冬〉にはエディプスの神話は存在しない。」
 最終的に、ゲセンを両性具有人類の星に設定することで、作者はエディプスの類型を手放してしまっている。

 さて、改稿版「冬の王」ではエムランはおそらくアルガーベンの産んだ子である。
 とすると、短編集『風の十二方位』で「冬の王」を読む読者はこの本の最初に収録されている作品との類似に気付く。
「セムリの首飾り」である。

【「セムリの首飾り」との共通】


 「セムリの首飾り」の主人公セムリは、「浦島効果」によって(アルガーベンと同じ。セムリの場合は16年、アルガーベンの場合は約60年が経過している)帰って来た時には夫は既に死没し、幼児だった娘は美しく成人している。セムリの娘のハルドレはアルガーベンの子のエムランのように老いても死んでもいない。しかし作品のラストは似ている。旅立つ前の子との別れの場面も似ている。以下がそれぞれの作品のラストの一部である。


「これを受けとって、これを受けとって。これはダーハルとハルドレのもの、長い夜の果てからわたしがもってきたのですよ!」
 セムリは大声でさけぶと身をよじり頭をさげて首飾りをおとしましたので、首飾りは石床におちて冷たい透明な音をたてました。
「さあ、もっておいき、ハルドレ!」(「セムリの首飾り」)

 アルガーベンは亡骸の上にかがみこんで、その冷たい手をとり、老人のごつごつした人さし指から、彫刻をほどこした大きな金の指輪を抜こうとする。だがやめてしまう。「はめておいで」と彼女はささやく。「はめておいで」と。(「冬の王」)

 失われて取り返せない時間の代わりに、産みの親は子にせめても首飾りや指輪しか与えてやることはできない。

【誰がソルベ・ハルスを産んだのか】


「冬の王」と「セムリの首飾り」が共通する部分を持っていると考えると、こんどはたろうには、『闇の左手』を読んで謎だった部分が思い出された。
 エストラーベンの子であるソルベ・ハルスを産んだのは結局誰だったのかということである。

 ソルベは同腹のきょうだいであるエストラーベン(セレム)とアレクの間に生まれた子であるため、どちらにせよハルスの名を継ぐことになる。
 ここにはゲセンでもタブーである近親相姦の問題が絡むのだが、アレクの死の経緯や原因、時期が曖昧なように、ソルベを産んだのがアレクとセレムのどちらなのかも、曖昧である。
 また、いまひとり関係のあったアシェ・フォレスとの間の二人の子の場合は、エストラーベンは「父親」なので子どもたちはフォレスの姓に属している。
 で、たろうは初読、再読となんとなくセレムは「父親」だったのではないかと思い込んでいた。
 
 セムリとアルガーベンはどんな形であれわが子のもとに戻って来るが、エストラーベンは永遠に帰らない。エストラーベンは異星人のアイを自らの代理として、アイの言葉によれば「愚者の使い」として、自分の親とわが子ソルベに生の証である手記とアイの証言を託す。
 大義を優先して勝手にどこかで死んでしまう、こういうありかたは、なんとなく「父親」的だ。ソルベはただでさえすでに片親を亡くしているというのに。その上エストラーベンの死に方は自殺ととれなくもない最後であり、これはカルハイドでは倫理的逸脱であり、大きな不名誉ということになっている。(アレクの死についてもどうやら自死がにおわされている?)

 しかしそのつもりで読み返してみれば、「息子に長い文をしたためる。(…)予はなぜかかる手記をしたためているのか? 息子に読ませんがため?(11章)」、「思いはおのずと郷と息子の上におよび(…)(16章)」というような思いが、単に遺伝的・社会的跡継ぎへの思いのみならず、血を分け肉を裂いて産んだ子への思いであってもまったく不思議はないのである。

 アレクとセレムの関係はセレム(エストラーベン)の「わたしより一つ年上だった。エストレの領主になるはずだった。わたしたちは……わたしは故郷を出た、知っているかもしれないが、彼のために。兄は十四年前に死んだ」というような短い言葉で説明されるだけだが、2章「ブリザードのこちら」、9章「叛逆者エストラーベン」などの挿話から読者には類推できるようになっている。
「叛逆者エストラーベン」の言い伝えは、カルハイドの中のケルム国内で隣接して反目するエストレ領とストク領の争いを背景にしている。エストレ領のアレクとストク領のセレムが結ばれたことによりアレクは命を落とし、ひそかにハンダラ教の宗教的共同体である「砦」で出産したセレムは子をエストレの跡継ぎとして託し、〈セレム〉の名付けをエストレにもたらす。

 アレクとセレムという名の組み合わせは命を落とすアレク、産まれた子を託して姿を消すセレムという図式をエストラーベンきょうだいへあてはめることを誘っているかのようだ。エストラーベン(セレム)は砦での修行経験があると述べているのである。
(ただし、隣国の伝説である17章「オルゴレインの創世神話」では最初の人類エドンデュラスを妊娠させるのは名前未詳の弟であるので、これをどうとらえるべきだろうか。)

 エストラーベンは「母親」だったのではないか?
 カルハイドにおける継承の慣習では、王や領主自身が産んだ子が優先される。
 となると、エスバンズ・ハルス・レム・イル・エストラーベンは、単に現在のエストラーベン卿、亡きエストラーベン卿の親であるのみならず、ソルベの祖母にしてアレクとセレムの母ということになる。石造りの薄暗い部屋で車椅子に座っているのは産んだ跡継ぎを二人とも、しかも恥辱を伴って失った母なのである。部屋の中には異人と、子を失った老いた(母)親、(母)親を失った子がいる。老人と若者のあいだには一世代の空白がある。
 アルガーベン(15世)の懐妊と流産のエピソードもなにやら暗示的に見えてくる。

【いろいろな本を読んでみる】



 このあたりまで書いたところで「日本の古本屋」で注文していた『世界の果てでダンス ル・グウィン評論集』が届いた。
 この本に入っている「ジェンダーは必然か? 再考」が読みたかったのです。
『闇の左手』についてのこの文章は76年に発表され、87年に以前の文章を削ったり覆い隠さないかたち(〔〕を使ったかたち)で加筆されている。
 ここでル・グィンは次のように述べている。

「(…)さらに悔やまれるのは、ゲセン人の生理機能がもつ精神的な含みを追求する上で、疑いもなく臆病さと不手際を暴露してしまったことである。(略)この領域における主たる欠陥は、しばしば私が受ける批判に表れているとおりである。ゲセン人が男女両性具有者ではなく、男性(原文「男性」に傍点)のように見えるという点である。
 この原因のひとつは代名詞の選択に由来している。」

 またエストラーベンの人物造型についてこう書いている。

「不幸にも、私が作品の構想を練っているときに生まれた本のプロットと構成は、ゲセン人の主人公エストラーベンに、私たちが文化的に「男性」として受けとめることを条件づけられている役割をほとんど独占的に与えることになってしまった――首相(ゴルダ・メイヤーやインディラ・ガンジーでさえ固定観念を破るには充分ではない)、政治的陰謀家、逃亡者、脱獄囚、そりの曳き手……、私がこのような役割を設定したのは、こうしたことを男性ではなく男性女性がやってのけること、しかも相当な技量と能力を発揮しながら実行することを観察して、私は個人的な喜びを味わっていたからではないかと思う」
 

 先生、現在の 読 者 で あ る 私 も お な じ で す !


 相当な技量と! 能力! エストラーベン卿かっっっこいいもんねえ……。
 さて、この後はどう続くのだろう?

私たちが無意識のうちに「女性」のものとして受け止めている役割という点では、誰もエストラーベンを彼自身の子供を持つ母親とは見ない。〔「彼」を抹消。〕それゆえ、私たちはどうしても彼を男として見てしまう。〔「彼を」というように引用符をおつけ下さい。〕

  そうかー。やっぱり、ソルベ・ハルスの産みの親はエストラーベンなのかもしれない。
 というわけでこの件はいったん落着!

 じつは、やはり「日本の古本屋」で注文した小谷真理先生の『女性状無意識』も届いたのです。頭から読まずに、「父権制下の両性具有 ――アーシュラ・K・ル=グウィン『闇の左手』を読む」から急いで読むと、「両性具有」については単純な問題ではないみたい。
 そも、たろうが↑でこちゃこちゃ書いているようなことにいったい意味があるんでしょうか。
 アマゾンで頼んだユリイカの特集号だけがまだ来ないなあ……。

【本文引用】
・ル・グィン、小尾芙佐 訳「冬の王」(『風の十二方位』ハヤカワ文庫、1980年)
・ ・ル・グィン、小尾芙佐 訳「セムリの首飾り」(『風の十二方位』ハヤカワ文庫、1980年)
・ル・ウィン、篠目清美 訳『世界の果てでダンス ル・グウィン評論集』(白水社、1991年)(DANCING AT THE EDGE OF THE WORLD,1989)

【参考】
・小谷真理『女性状無意識 テクノガイネーシス――女性SF論序説』(勁草書房、1994年)

2018年9月6日木曜日

エストラーベンは男性か? 女性か?(U・K・ル・グィン『闇の左手』を読んで一周回る)

【0.ル・グィンを男だと思っていた】


 中学生くらいまで、ル・グィンを男だと思い込んでいた。なぜそう思い込んでいたのか。たぶん、日本でもっとも知名度の高いル・グィン作品は児童向けファンタジーとしての〈ゲド戦記〉(アースシー)シリーズだ。
 児童書では余地の問題か、それとも子どもを混乱させるのを防ぐためかもしれない、外国の作者名は姓のみの表記であることも多い。そう、たとえば、コナン=ドイルとか。フルネーム表記を見れば、アーシュラ・K・ル・グィン(もしくはル=グウィン)はあきらかに女の人の名前である。アーシュラはウルスラ。「魔女の宅急便」のアニメにも出てくるウルスラ。
 どうして男の人だと思い込んでいたのか。たろうが想像していたのは外国のがっしりした初老の男性だった。たろうにとって〈ゲド戦記〉は父親が子どもの頃から持っている三巻の古びた函入りの大きな本で、もしかしたら装画の中世写本調の男性像と作者像が混線したのかもしれない。それに中をぱらぱら見てみるとなんだか難しそうで、きっと気むずかしいおじさんが書いたのだろうと思い込んでいた。
『ライオンと魔女』を書いたC.S.ルイスも、『不思議の国のアリス』のルイス・キャロルも男性だから、〈ゲド戦記〉の作者も男性だと思ったのだろうか。本の作者というのは男性なのだとなんとなく思い込んでいたふしもある。いや、どうも思い出してみると子どもの頃は男性と女性の区別がついていなくて、人間は齢をとると魔法使いみたいな老爺になるような気がしていた気がするし、学者や作家というのは書斎に籠っている男性の姿でイメージされた。自分が女性だと気付いていたかもわからないところだ。自分がたんにmanだと思っていた、たろうの少年時代である。

 ファンタジーにはそれほどのめり込まなかった。〈守り人〉シリーズの熱心な読者だったけれどそれは小学校高学年から中学にかけてで、ファンタジーとしてよりは現代作家の書いたジュブナイルととらえていた。〈ナルニア国物語〉の第一巻の『ライオンと魔女』はとても好きで何回も読んだが、以降の巻は読んだり読まなかったり、トールキンの長い物語は身近な図書館に置いていなかった。早いうちにホームズを入り口にミステリに興味が集中してしまい、そのうちいわゆる純文学に重心が移っていった。

 SFにも疎かった。『透明人間』『タイムマシン』くらいの古典的名作を読んだくらいだった。もちろんル・グィンはSFジャンルの著名作家である。
 それで、だいぶ長い間ル・グィンを男だと思い込んでいた。
 それが、フェミニズム文学批評やフェミニズム思想史に多少の興味を持つようになると、ところどころでアーシュラ・K・ル・グィンに出会うようになる。
 それでもまだ読まなかった。『闇の左手』は、偶然ひとから勧められたから読んだ。



【1.これはSFである。】


 私はこの報告書を物語のようにしたためよう。わが故郷では幼時より、真実とは想像力の所産だと教え込まれたからである。まぎれもない事実もその伝え方で、みながそれを真実と見るか否かがきまるだろう。(中略)事実もまた鞏固ではなく、一様な光も放たず、無欠でもなく、真実の輝きを放つとは限らない。
(『闇の左手』第1章「エルヘンラングの行進」)」

『闇の左手』はこのように書きはじめられる。
 添え書きには「オルールのスタバイルへ、ゲセン/惑星〈冬〉へ初派遣の使節ゲンリー・アイよりの報告書」とある。
 原文では、' To the Stabile on Ollul:Report from Genly Ai,First Mobile on Gethen'。

 初心者のたろうはハイニッシュ・ユニバース(ル・グィンによる、ハインを中心とした文明を描いた一連の作品)に詳しくないことをはじめにお断りしておきます。

 そのいまのところ読んだ範囲によると、同じ小尾芙佐の翻訳によるハイニッシュ・ユニバースの中編「赦しの日」(「SFマガジン」2018年8月号)では「定着使節」と書いて「スタバイル」、「移動使節」と書いて「モバイル」とルビを振っている。あまりに遠い星とのやりとりのため、比較的近い拠点に留まる者と直接赴く者に役割を分け、stabileとmobileというもともとある単語に新しい意味を持たせている。スタバイルは一人とは限らないようで、複数人の「定着使節団」と考えてもよいだろうか。ゲンリー・アイは惑星ゲセンへの最初の「移動使節」である。

 エクーメン暦1491年、地球出身の「使節」であるゲンリー・アイはゲセンにいる。ゲセン、別名を惑星〈冬〉は、いま氷河時代の寒冷な星であり、アイはこの星の人類との接触のためやってきた地球を含む83の惑星の連合からの初めての使節である。つまり、この物語はSFである。
 物語は、アイやその他の調査隊が派遣元へ書き送った報告書や、ゲセンで採集された各種の伝説、昔話、言い伝え、そしてもう一人の主人公の手記により構成されている。つねに小説に尾いてまわるそもそもこれは「誰が」「いつ」「なんのために」そして「どのように」書いた文章であるのかという疑問はこのように解決される。


「私はこの報告書を物語のようにしたためよう。わが故郷では幼時より、真実とは想像力の所産だと教え込まれたからである。まぎれもない事実もその伝え方で、みながそれを真実と見るか否かがきまるだろう。(中略)真珠がそうであるように事実もまた鞏固ではなく、一様な光も放たず、無欠でもなく、真実の輝きを放つとは限らない。ただし両者とも繊細である。」

 しかしこの書き出しはなんだろう。「わが故郷では幼時より」。とアイは書く。アイは地球人である。しかしこれは現在の地球の常識ではない。アイはのちにゲセン人の、というより「無知」の状態を重んじるハンダラ教徒であるエストラーベンの相対主義にやや苛立っているが、現在の地球の見方からすれば、アイのこの前置き自体がじゅうぶん相対主義的である。アイは真珠を喩えに挙げているが、アイの見方は対象をまさしく「玉虫色の」ものとして捉えるものである。
 もっといえばこればいささか「女性的」な考え方、女性的な語り口である。あるいは文学的であるとも言えるかもしれない。地球で支配的な、冷静な、客観的な考え方は、いまのところ、真実はいつもひとつ、と考えている。  
 しかし、未来――ゲセンや地球をはじめとするいくつもの惑星が、かつて広範囲で繁栄を誇った人類による種の実験場であったことが判明した遠い未来――の地球からやってきた男であるアイは、このように考えている。これはSF小説なのだ。

【2.エストラーベンと「ミスタ・アイ」】

 

ゲンリーの窓口役となっているのがエストラーベンという人物である。
 セレム・ハルス・レム・イル・エストラーベン。「レム・イル・エストラーベン」は称号であるので、姓名はセレム・ハルスである。ゲンリーはこの人物をもっぱら「エストラーベン」と呼び、つぎに「ハルスさん」、「ハルス」と呼ぶようになり、ついに「セレム」と呼ぶまでにはそれはもう大変なドラマがあるのである。そしてこの人は男でも女でもない。なぜならゲセンは両性具有人類の星だからである。

 かれの故郷はカルハイド王国の中の領国のひとつであるケルム国の、その中の、エストレ領の領主の子で、現在のエストレ領主である(エストラーベンという称号は領地由来である。ストク領の領主ならストクベンになる)。かれの故郷は首都から遠く離れた、どこも寒いゲセンのカルハイドの中でも特に寒く寂しい山がちな田舎らしい。
 そして、ハルス・レム・イル・エストラーベン(親しくない人物が正式に呼ぶ時はこうらしい)は、壮年から中年の若さでカルハイドの宰相を務めているところからしても、かなり優秀な官僚であり政治家である。ひじょうに穏やかで、知的で皮肉の利いた話し方をする。
 が、じつはこのエストラーベン、後でわかることだが、スキー、野宿、肉体労働、狩り、身分証偽造もどんとこいの超行動アウトドア派なのだ!(電気工作も理屈はわかるよう、ただし泳げない。)知的で優雅なオーラのある由緒正しきヤンキーといったイメージをしてください。信仰心があつく、瞑想・断食の修行も積んでいる。その上もてる。超人である。スーパーキャラクターだ。

 読んでいて読者はエストラーベンと比較するのでごく平凡で平均的な青年に思えてくるが、ゲンリー・アイのほうもなかなかのものである。調査隊が持ち帰った資料からカルハイド語を身に付け、通信機の扱いに精通し、交渉力に長けた宇宙飛行士並みかそれ以上のエリートである。
 地球人であるゲンリーは、地球の人類としては平均的な大きさだが、ゲセン人たちの中ではにょっきり目立ってしまう。肌の色は浅黒い人の多いゲセンの人々よりも黒い。肌の色についてゲセン人に言われてゲンリーは言う。「土の色ですよ」。ゲンリーはアフリカ系人種の血を引いていて、LとRの発音の区別のある言語で名付けられていて、名字からするともしかしたら中国系でもあるかもしれない。彼は春にはサクランボの木が花ざかりになる土地の出身である。

「セレム」、「アシェ」、「ソルベ」……物語に登場するカルハイドの人々は人々はしばしば先祖や昔話の登場人物と同じ名を持ち、同じような役割を反復し、あたかも因果を繰り返すための役割を担っているようである。(この物語の時点においてカルハイドの王はアルガーベン15世、アルガーベン・ハルジであるが同じカルハイド王国を舞台とした短篇「冬の王」のアルガーベン17世によれば王家の世継ぎは代々アルガーベンまたはエムランと(交互に?)名付けられる。ハルジが王家の姓である。したがって王の従弟でエストラーベンの政敵チベ卿の姓名はぺメル・ハルジである。)

 この星でただ彼自身であるのはゲンリー・アイただ一人である。彼の名前のゲセンの言葉との偶然の一致については作中でのちに語られる。また、男もゲンリー・アイただ一人である。

【3.エストラーベンは男性か? 女性か?】


 これは遠い未来の話であるが、フィクションであるゆえに、多分に実際に書かれた60年代の観念を反映している。当然、90年代に生まれた私が2018年に読めば、多少の違和感が生じる。
 ゲンリーはゲセン人を――彼に関係のある個別例としては特にエストラーベンを男女のどちらとしてとらえるかという点に固執して見える。

「食卓におけるエストラーベンは、女性的で、魅力と感受性にあふれ、実体を欠き、見た目には美しく如才ないと思った。彼に嫌悪や不信を感じるのは、この心地よいしなやかな女性らしさの故だろうか? 炉ばたの火が照らしだす暗がりの、私の横にすわっているこの色浅黒い皮肉屋の権力者を女と考えるのは不可能だ」

 なぜだ?! なぜ不可能なのだ、ミスタ・アイ?!
 もちろんこれは六〇年代当時までの男性の、そして著者自身もある程度慣れ親しんでいる感じ方考え方をフィクションの中で戯画化したものであり、アイをあまり責めるのは不当だけど。

 彼の戸惑い様に、読んでいて私は「男でも女でもないのだから、男でも女でもないでいいじゃないか」と思ってしまう。しかし「エストラーベンを男と女どちらとして捉えるべきなのか?」という問題は一度考えておいたほうがよい問題であるかもしれない。なぜならば、エストラーベンを男であるかのように考えるのと女であるかのように考えるのでは物語の解釈が違ってくるからだ。

 アイはエストラーベンに女性という存在をなんとか説明しようとする。それを聞いたエストラーベンの
「すると平等は普遍の法則ではないのですね? 彼らは知能的に劣っているのですか?」
という問いは現在の読者にも突き刺さる。充分に知性豊かなエストラーベンが、(男性は1例のみゲンリーを知っているものの)実際に女性を見たことがないためにこのように問うということは、その無邪気な問いが、ゲンリーの話から当然導き出される仮説だということだ。エストラーベンの問いに対してゲンリーは答える。

「さあどうだろう。あまり数学者とか作曲家とか発明家、哲学者などにはなりませんね。かといって彼らが愚かだというのではない。体は筋肉質ではないが男性より忍耐力はややまさっている(…)」

 なにをねぼけたことを言っていやがる。
 数学者とか作曲家とか哲学者として名を残すには、いくら才能を持っていても、その世界の権力に接近し多少なりともこれを手に入れなければならない。それに、「才能」が明らかになるには相応の教育を受けることへの障害が少なくなければならない。有史以来女性は男性と同じだけその機会を持っていたと言えるのか?
 ゲンリーの捉え方はいささか無神経のようである。エストラーベンは気付いていないが。

 おお、ミスタ・アイ! 宇宙の果てに航行できるようになってもまだそうなのか? これは60年代の終わりに1929年生まれの女性が書いた小説なのだから、2018年の女性作家が書いたらまた違うようになるだろう。70年代以降フェミニズム思想と運動はいくつもの観念の変革を成し遂げ、現実の社会を動かしてきたのだから。
 しかしほんとうにそうだろうか。
 自分が偉大な数学者や作曲家や発明家になれそうもないことが、ただ己の才と能の不足によるものではなく、自分の性別にあらかじめ自然が設けている限界なのではないか? 歴史上の偉大な男たちに並ぶことなど、はじめからどだい無理な話だったのではないか? 今まで不可能を夢見ていたのではないのか? という怖れは今でも女性を脅かしているのではないのか?

 それはさておき。
 エストラーベンを女と見るべきか男と見るべきか?

 ゲンリーは思い悩んでいるが、これについては彼以前の調査隊の一員オング・トット・オポングの見解(7章「性の問題」)が簡潔で的確だろう。

「だれしも、なんでもやってみることができる。十七歳から三十五歳くらいまでのすべての人が(…)”出産にしばりつけられる”義務を免れないという事実は、ここでは、よその世界の女性のように完全に”しばりつけられる”ことがないということだ――心理的にも肉体的にも。(…)換言すれば、ここの人間はすべて、よその世界の自由な男子ほど自由ではないということだ。」

 彼女はこうも書いている。
「しかし頭の中で、”かれ”という代名詞を使っていると、いっしょにいるカルハイド人が男ではなく、おとこおんなだという事実をともすれば忘れてしまう」
 アイの困惑はアイだけの落ち度ではないのである。

 性の問題、The problem of sex。
 エストラーベンは男か、それとも女か?
 That is the problem.

【4.エストラーベンを女性として捉えてみたい】


 だから女でも男でもないんだってば。

 しかし実際のところ『闇の左手』はやおい的に大変アツい物語なのである。ゲセン人の見た目はどちらかというと男性ぽいし、なんだか「自然に」アイとエストラーベンの男性同士の愛の物語のように読めてしまう。
 たろうもM/M小説とか、BLと呼ばれるジャンルを多少たしなむが、しかしやっぱりエストラーベンを男としてみることは適切だろうか? という迷いが捨てきれない。
 なぜ人はやおいをたしなむのか、という議論は古来飽きるほど繰り返されてきて、フジョシは耳にタコができている。
 よく言われるように(読者が女性の場合)読者である自分をCG合成のグリーンバックのように消して楽しめるからかもしれないし、自他への女性嫌悪が隠れている場合もあるだろう。男と女だから、という安直な発想にあぐらをかいたラブ・ロマンスにはノれねーぜ! という心からBLを読んでいる場合には、そのあたりが繊細に考えられていれば、男女女男のラブ・ロマンスでももちろんかまわないわけだ。
 ただ男と女だからって、あーた、ネジか磁石じゃないんだから、そんなバカな。人と人を引き寄せ合う磁力は個々人の人間性やめぐりあわせであるべきではないだろうか。
 
 エストラーベンという人物のありようはまさしく「だれしも、なんでもやってみることができる」環境の結実そのものである。その上、かれは支配階級の由緒ある家柄の生まれであり、厳しい自然環境と教育の中とはいえ末っ子として可愛がられて育ったことだろう。かれは頭脳派で情念の人だが柔弱ではない。一人でなんでもできる完全体、パーフェクト・マンである。
 そんなかれを「男」、男の中の男として見たら、それは作品の折角の微妙な部分を切り捨ててしまうことにならないだろうか?
 もしもエストラーベンのように、先見性から宰相の地位まで上りつめ、信仰に励んで心身の制御まで身に付け、それらの能力の全てをかけて異星人の友人を守り、救い、励まし、過去の過ちの責任を自分の身に引き受けて始末をつけることができたら。それはかれが男性だったら、並大抵ではないとはいえ有り得るヒーロー像だけれど、女性だったらほとんど不可能である。作品が書かれた米国でも、たろうがそれを読んでいる日本でも未だ女性がエストラーベンのように宰相、あるいは総理大臣(Prime minister)になったことはない。この物語はSFなのだ。
 まったく、女の身で、エストラーベンのように在れたら、それは女の誉れである、とたろうは考えてしまう。そんなの、余計な感慨なんだけど。
 そこで、ひとまずのところ、私はエストラーベンを女として捉えてみたい。

【5.一周回って】


 いや、だから、男でも女でもないんだけど。

 だけど、エストラーベンを女性のように捉えたら、今度はまた別の問題が浮上してくる。
 エストラーベンとアイの、常に緊張を帯びた、ほとんど恋愛に近い、プラトニックな関係が、ごくふつうの異性愛的関係の変奏に収まってしまうからだ。
 これは一面では当然かつ妥当と考えてもよい。げんにふたりが密室で性的緊張関係に陥る場面で、エストラーベンははっきり女性のように描写されている。
「赤みがかった光をあびた彼の顔は、物おもいにふけりながら無言で相手を見つめている女の顔のように、たおやかで傷つきやすく遠い顔であった」
 この時のエストラーベンは「女の顔」をしていたほうが、たぶん読者には想像しやすいし受け入れられやすいだろう。
 けれどもかれは男でも女でもないのだ。

 でも私は、ここで男でも女でもないのはエストラーベンだけではないような気がする。
 何日も何十日も一対一で過ごす中で、アイとエストラーベンは地球人と異星人でも、単性人類と両性具有人類でもなく、他者と他者、自分と相手でしかなくなっていく。その時には性別は比較対象になる社会なしに曖昧になっていくし、自他の境界もときに曖昧になる。
 人間の世界に帰って来た時、アイはもとのゲンリー・アイではない。
 久々に自分の単性人類の同類11人に対面した時、アイは違和感をおぼえ、ゲセン人の医師に診察されて安らぎをおぼえる。
「彼のおだやかな声と顔、若く真面目な顔、男でも女でもない顔、人間の顔は、私にとって救いだった、見馴れた正常な顔は……」
 アイの認識は、両性具有のゲセン人のほうに同化して、同類であるはずの男女に対して「異人」になってしまっている。それは彼がそのとき、(彼の感覚の上では)本来はそうであるはずの「男」ではないからだ。
「男ではない」ということを、「女である」ということと考えてみることもできるのではないだろうか。
 つまり一周回って、アイとエストラーベンの関係は「百合」だということに……まあ、それはならない。

『闇の左手』の物語の内には女性はほとんど存在しない。アイは男であるし、ゲセン人は男性でも女性でもない。アイにとっても、彼の話を聞くエストラーベンにとっても、「女性」はずっと謎の他者である。それが私に疎外感のような、わずかなものたりなさのようなものを感じさせる。アイは戸惑っているが、最後に登場するアイの女性の同僚のヘオ・ヒュウの屈託のない様子は私をほっとさせる。それで、一周回ってこんなことを考えたのかもしれない。


【本文引用】
・アーシュラ・K・ル・グィン 著、小尾芙佐 訳『闇の左手』(ハヤカワ文庫、1977年)
・Ursula K. Le Guin, The Left Hand of Darkness(Gollancz,1969/2017)
【参考】
・「S-Fマガジン」(早川書房、2018年8月号)
・アーシュラ・K・ル・グィン 著、小尾芙佐 訳「冬の王」(『風の十二方位』ハヤカワ文庫、1980年)

2018年8月21日火曜日

廃図書館と活図書館

 物語は本の中に書いてあるが、その本が収められた図書館も物語になりやすいようだ。その本が収められた図書館の物語を記した本が収められた図書館が……。
 ややこしいのでやめよう。

 さて、ホームズのことなどについて書きたいと言っていたブログですが当初からのもうひとつの大きなテーマは「図書館」なのではないでしょうか。(最初の投稿を見られたし。)
 ブログを何か月も放置して何をしていたかというと、小説を読んだりドラマを見ていました。
 そして「図書館は物語になる」という仮説に思い至ったわけです。
 去年の夏には『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコ)を読んで、映画版も借りてきて三回観ていました。また今年の春から秋にかけては、ドラマ「Person Of Interest」(1~5シーズン全103話)にかかりきりで、主演のマイケル・エマーソンとジム・カヴィーゼルの他の出演作(「ソウ」シリースの第一作や「大脱出(原題Escape Plan)」)を観たりしているうちにこんな季節になっていたというわけです。エマーソンの出ている「LOST」鑑賞は遅々として進みませんが。

 さて仕切り直してもう一度。
 物語は本の中に書いてあるが、その本が収められた図書館も物語になりやすいようだ。その本が収められた図書館の物語を記した本が収められた図書館が……。(ややこしいのでやめよう)



「Person Of Interest」第1話で、2011年、ニューヨークの早くも冷え込む9月、元軍人の路上生活者を強引な手段でスカウトした足の悪い眼鏡の男、自称「フィンチ」氏は相手を市内のある建物へ案内する。フィンチ氏はいう。

「西洋文明の衰退の象徴 予算削減で閉鎖された図書館だ。」

 古めかしいこの廃図書館の床には、夥しい本が散乱している。(侵入者の存在にすぐ気づけるように、床に埃や小麦粉をまいておくのと似たような仕掛けだろうか?)だが上階へ上がれば、書架にきちんと収められた本が並ぶ居心地のいい空間である。ここがフィンチ氏の隠れ家らしい。(ただし住んではいないようだ。)コンピュータとネットに詳しいフィンチ氏のデスクはその中でも、金属製の優美な柵で保護された貴重書の棚の前に据えられている。ここが、のちのちまで二人(仲間は増えていく)の秘密基地となる。


 図書館を舞台にした物語といえば、たろうには真っ先に「GOSICK」シリーズ(桜庭一樹)が思い浮かぶのです。これはまったく個人的な思い入れで、中高生時代に図書館で借りては読み耽ったからです。
「GOSICK」(GOTHICではないのです)の二人の秘密基地になっているのは、架空のヨーロッパの小国ソヴュール王国のとある学園の敷地に建つ聖マルグリット大図書館である。この図書館は皮の表紙を持つ、もしかしたら羊皮紙製の、大型本を所蔵する古いタイプの図書館で、主人公の久条一弥は友だちのヴィクトリカを訪ねて、庭園になっている最上階に辿り着くためには折れ曲がりながら延々続く木の階段を「足をだるぅく」しながら登っていかなければならない。
 桜庭作品の中には、メジャーなこの聖マルグリット大図書館の他にも、もうひとつ、重要な図書館がある。と私は思う。
『ファミリーポートレート』の図書館である。いま本が手元にないので記憶に頼って書くので、もしかしたら間違っているかもしれない。
 殺人を犯した母の眞子とふたりきりで、小さな町を転々としながら育つ主人公の駒子は、ある町の(たぶん公共)図書館に入り浸るようになる。食肉工場に勤めながら男(単数)に支配される母という現実から逃れて、駒子は、なぜか打ち捨てられ廃墟のようになっている図書館に、(たしか)無断で侵入し山のような蔵書に埋もれて過ごす。聖マルグリット図書館は新聞や電話の発達した1924年となってはもはや時代遅れになっているとはいえ、まだ権威と図書資料の保管という機能の残っている図書館だが、この図書館は現代の「市民のための」図書館であるにもかかわらず、その市民に忘れられもはや図書館の屍となっている。

 図書館には廃図書館と活図書館、生きている図書館と死んでいる図書館がある。
『薔薇の名前』の図書館は「生きている図書館」と「死んでいる図書館」のどちらだろうか。
 非常に貴重な図書を収め、厳重に管理されているはずのこの図書館は、しかし、中の本が読まれることを望まない図書館なのだ。迷路のような構造とその他の仕掛け(たろうは映画版でこの図書館の仕掛けが変更されかつ比較的単純な構造になっていることに最初かなり不満であった。)をもつ図書館は、いわば「図書館であることが自己目的化した図書館」ともいえるだろう。
 図書館が図書館の白骨、図書館の化石となった時、あらためて物語の舞台になるのはなぜだろうか。
 たぶん、通常の、平時の、本来の姿の図書館とは一種の生体であって、利用者と、利用者の使用によって動き、全身を巡る図書資料という血液の循環によって図書館たらしめられている。血の流れが止まり、肉が削げた図書館はもはや図書館ではなく、図書館の形骸をもつ亡霊に変わる。亡霊でなければ、ゴーストストーリーの登場人物にはなれない。


 物語は本の中に書いてあるが、その本が収められた図書館も物語になりやすいようだ。その本が収められた図書館の物語を記した本が収められた図書館が……。そういうわけで、図書館は数多くの図書館の亡霊の気配でざわついている。
 これが、図書館に行くとトイレに行きたくなる理由である。


(『薔薇の名前』は2019年放送予定のドラマとしてイタリアなどの合作で制作が進んでいるようです。そして、マイケル・エマーソンは修道院長を演じます。)

2018年4月29日日曜日

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んで作った詩

 行く手の段の上に、なにか小さいものがほこりの中で動いていた。
 それを見るなり、イジドアはスーツケースをほうりだした。

(フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』朝倉久志 訳、  ハヤカワ文庫、1977年)



  「『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んで作った詩 」


 むかいの座席(シート)の男性の
 しらが混じりの頭のかげに 蜘蛛がいる
 手のひらほどの
 磨りガラスの
 蝋製の
 白い大きな蜘蛛

 外側にいるのだろうか
 猛スピードで東へ走る急行電車の窓の
 蜘蛛は内側にいるのだろうか

 ふたたび黒い文庫本の中にもぐりこむ
 Do Androids Dream of Electric Sheep?

 顔を上げると
 もう蜘蛛はいない
 蜘蛛などというものは
 ずいぶん前から

 電車が走り去った
 線路の間に
 磨りガラスの蜘蛛の脚が落ちている
 もうずっと前から 

 電車の窓に蜘蛛の亡霊がはりついていることがある
 白い手のひらほどの

 ホームにちらちら漂っている埃は
 小さな羽のある虫の亡霊で
 この季節になるとあらわれる

 (げんじつにはまだ蜘蛛はいる)
 電車の窓に蜘蛛がはりついていることがある
 電車の窓に蜘蛛の亡霊がはりついていることもある