2014年11月17日月曜日

たろうとホームズ高校生篇 ぼろぼろの『シャーロック・ホウムズ読本』

 
 
 偕成社の青いシャーロック・ホームズ全集の巻末には、作品解説とコナン・ドイルの年譜に加えて、ホームズ物語の周辺情報がまとめられれている。 

 第一巻の『緋色の研究』では「ホームズの人生を生きる人たち」として、訳者の各務三郎さんが、世界のホームズ愛読者や「シャーロキアン」について書いている。各務さんはシャーロキアン(これはアメリカや日本で一般的な呼び名で、イギリスでは「ホームジアン」と呼ぶことも多いらしい。)を「ホームズを愛し、より充実した人生を生きようとしている人たち」と表現し、日本を含めた各国のシャーロキアンの組織と著作を紹介する。

 中でも「熱狂的な」シャーロキアンの会としてアメリカの「ベーカー・ストリート・イレギュラーズ」と、その会報から編集された『シャーロック・ホウムズ読本――ガス灯に浮かぶ横顔』(原題PROFILE BY GASLIGHT An Irregular Reader About the Private Life of Sherlock Holmes、エドガー・W・スミス編、1944年刊、邦訳は研究社より1973年刊。)について詳しく述べている。
 その中では「ホームズの蔵書目録をつくったり、ホームズ家の盾型紋章を作成したり、ホームズの家系について論じられたり」されており、他にワトスンの傷の位置について、はたまた「ワトスンは女だった」という考察もあるという…。

 その頃のたろうは、その本を見つけ出して実際に読もうとは思いつかなかった。ただ、各務さんの文章を繰り返し読み、真ん中にこちらに横顔を見せて窓辺にたたずむホームズの絵を配した『シャーロック・ホウムズ読本』の書影を眺めていた。


 あんなにもホームズ物語に夢中だったたろうだが、中学生になるころには、ミステリとしてはより複雑でより洗練された現代日本の作品に重心が移っていた。

 それが、進学した高校の図書館に揃えられていたちくま文庫版のシャーロック・ホームズ全集(ちくま文庫「詳注版シャーロック・ホームズ全集」ベアリング・グールド解説・注、小池滋監訳)を手にとってみて、ひさしぶりに胸の奥でもぞもぞ動くものを感じたのだ。
 クラフト・エヴィング商會による美しい表紙を開くと、本文に迫るいきおいでびっしりと注。ワトスンの文章の細部(天候、曜日、その他…)から各事件の日時を特定して、順番に並べてある。もぞもぞしているのは、どうやら小学生の頃からのシャーロキアン――「ホームズを愛し、より充実した人生を生きようとしている人たち」――への憧れらしかった。

 そんなある日、駅前の古本市をうろうろしていると覚えのある書名の背表紙が目に飛び込んできた。『シャーロック・ホウムズ読本』。
 近づいて棚から抜き出すと、表紙の真ん中でガウン姿の名探偵が横向きになってパイプをふかしている。間違いなくあの本だ。状態はあまりよくはない。カバーに折り皺、本体も擦り切れて、水に濡れたあともある。中身も黄ばんで、古い紙のにおいがする。でも紛れもなくあの本だ。薄茶色の帯が残っていて、そこにはこうある。
「シャーロック・ホームズは生きていた! シャーロック学の名著完訳」

 欲しい。でもぼろぼろだ。これは適正価格なんだろうか。もっと状態のいいものがあるかも。本当に? 古本街の近くに住んでいて、今までにこの本を見かけたことがある? 
 たろうは財布から五百円玉を取り出して、レジの前に進んでいった。


 家に帰り、手を洗ってから、机の前で目次を開いてみる。

 シャーロック・ホウムズの蔵書禄 (ハウアド・コリンズ)
 シャーロック・ホウムズの盾型紋章 (ベルデン・ウィッグルズワス)
 シャーロック・ホウムズ氏の真正なる盾型紋章 (W・S・ホール)
 ウォトスンは女であった (レクス・スタウト)
 ウォトスンは女ではなかった (医学博士 ジュリアン・ウルフ)

…などなど。まさにあの青い本で紹介されていたシャーロキアンたちの文章の数々。

 本文にとりかかる前に訳者の鈴木幸夫さんによるあとがきを読んでいると、こんな一文があった。

 「はじめに、この本の読者に敬意を表します。文学、小説、とくに推理小説の面白さを知っている人、教養豊かな、知的魅力の享楽家つまり高雅なエピキュリアンであるからです。」

 …大変だ。高校生のたろうは慄いた。この本を読むに相応しい人間にならなければならない。
 …死ぬまでに間に合うかなあ?

 たろうはとりあえず本棚の隅にホームズコーナーを作り、ぼろぼろの『シャーロック・ホームズ読本』と青い『緋色の研究』の二冊を安置した。そして心中密かに、いつの日か胸を張ってシャーロキアンと名乗れるように精進することを誓ったのであった。






 

2014年11月2日日曜日

たろうとホームズ小学生篇 青い『緋色の研究』

 
 
 
たろうの本棚に一冊の青い本がある。これはたろうにとって特別な本。

 偕成社の各務三郎訳『シャーロック=ホームズ全集1 緋色の研究』、奥付を見てみると1984年初版第1刷発行だ。もともとは紙のカバーを着けていたはずが、たろうの手元に来るまでにどこかで失くしてしまったようだ。むきだしの表紙には青地に黒でおそらく百年ほど昔の、ロンドンの河岸の景色が描かれている。

(この表紙の、シアンブルーに近い青が印象的すぎて、たろうは長い間、「緋色」というのはこんな色なんだと思い込んでいた。それが「スカーレット」のことだと知ったのはずっとあとのことだ。ばかだなあ! それでは、作中で探偵が無色のかせ糸の中に混じった緋色の一本をこの社会における犯罪に例えるくだりも、壁に血で書かれた「RACHE」の文字も、ちっとも題名と響き合わないのに!)

 
 この本で、元陸軍医ジョン=H=ワトスン医学博士は、シャーロック=ホームズと運命的に出会う。そしてたろうも同じように、シャーロック・ホームズに出会った。
 わたしは、空気のように自由だった。(中略)そんな状態だったわたしは、ふらふらとロンドンに ひきよせられていった。イギリス帝国のあらゆる遊び人たちが、その日暮らしをしているあの巨大な糞尿だめに、引きよせられていったのである。(上述『緋色の研究』8、9ページ)
こんな風に陰鬱に始まる物語は、たろうにまだよく知らない大人の世界の、あるいは人の内面の、薄暗いところを見せてくれた。そうしていつのまにかこの寒い、霧の中の「糞尿だめ」の街は、たしかにたろうの心象風景の一部にまでなってしまったようだ…。


 ほんとうに残念なことに、シャーロック・ホームズの物語で最初に読んだのがどの作品だったのか、実は思い出すことができない。この『緋色の研究』を読んでホームズ物語に興味を持ったのか、それともホームズ物語を読みはじめたところにこの本をもらったのか。でもどちらにしても、けっきょく同じことだ。この本をもらった時、たろうは小学一年生だった。小学生のたろうはホームズに夢中だった。

 小学校の図書室にホームズ物語は二種類あった。
 ひとつは、子ども向けに内容を省略・改変してリライトされた版型も字も大きなシリーズで、表紙のホームズは鹿撃ち帽をかぶり、曲がったパイプをくわえてチェックのインバネスコートを着ていた。たろうはまずこちらを読みはじめた。このシリーズで読んだもので覚えているのは『消えたカーファクス姫』。それから「アベイ荘園」の話もこちらではじめて読んだ気がする。(どうやらこれは岩崎書店発行のシリーズのよう。)
 もうひとつは、青い『緋色の研究』と同じシリーズ。本を読むのに慣れてきたたろうは次にこちらに手をつけた。文章は子どもにも読める易しい言葉で訳してあるが、挿絵は19世紀の末から20世紀のはじめにかけて雑誌に連載された時のものだ。黒いカバーには、本文中のイラストが明暗を反転して黄色で浮き出ていて、それが子ども心になんだか猟奇的、扇情的に感じられた。このシリーズで読んで印象的なのは「青い紅玉」、『バスカヴィル家の犬』、「唇のねじれた男」…。


   どちらのシリーズも、どうやら完全に揃っていたのではなかったようで、ホームズ物語の中でもそれから十年ほど経って初めて読んだ作品もあるし、ぼんやりとしか覚えていなかった作品もある。
 大きな屋敷の前の池に浮かぶ白鳥、銛で壁に串刺しにされた男の死体、食卓の上の冷たい肉料理…。そうした断片だけをよく覚えていて、今、慌てて読み返している。たろうは不真面目なホームズファンだ。

 だが、そんなことはたいした問題ではない。
 シャーロック・ホームズという名探偵の存在だけは、すでにたろうの中にしっかり根を下ろしてしまったから。『緋色の研究』のはじめに、彼がジョン・H・ワトスン博士の手をとってこう言った時に。
「アフガニスタンから、お帰りになりましたね。」(同15ページ)
  たとえのろのろよろよろとした歩みであっても、たろうのホームズ道がたぶん果てしなく続くことは、その時に決まったのだ。